夫婦別姓訴訟最高裁判決のおかしさ1(2015年判決)

 6月23日に選択的夫婦別姓が争われた訴訟の最高裁判決がだされた。原告の全面敗訴だったといえるが、直ぐにブログに書いたが、そのときは、まだ判決文がネット公開されていなかったので、報道のみによって書かざるをえなかった。その後数日して公開されたので、読んでみた。いろいろ考えるところがあるが、23日の判決は、主要な理由説明が実に短い。あとは、補足意見が大部分を占めている。したがって、2015年に出された判決をまず検討する必要があると思い、まず、2015年の判決を、ここで考察の対象とすることにした。
 興味深いことに、23日に出された判決の訴訟では、憲法に関しては、14条と24条の違反という訴えになっている。私は、そのことに疑問で、13条がもっと重要ではないかと考えているのだが、2015年判決の訴訟では、13条も入っている。しかし、私の考えている13条解釈とは異なるものだった。(その点については、次回詳しく書く。)
 具体的にみていこう。(判決文は最高裁のホームページに掲載されているものによった。)
 最高裁の判事は、常識的にみて、日本で、法律や社会の争いに関して、最も深い知見をもっているひとたちであると思われるのだが、この判決文を読む限り、その論理の不徹底やごまかしが、どうしても眼について仕方ないのである。こんなレベルなのか、と。

 まず、原告は、姓名は個人を社会で識別する「人格権」であるから、姓名を意志に反して付けざるをえないというシステムは、人格権の否定であると主張しているとして、以下のように反論している。
・たしかに姓名は人格権を構成するものである。
・しかし、姓は個人の呼称だけではなく、家族の呼称でもある。
・氏を個人の属する集団を想起させるものとして使用することに合理性がある。
・氏の選択は強制されるものではなく、個人の意志によって改めるものだ。
・氏と名は、識別機能を有するので、意志のみによって自由に定めるのは、本来の性質に沿わないものであり、統一された基準で定められることは不自然とはいえない。
・婚姻等身分関係の変化で改められることは性質上予定されている。
 
 以上が論理の展開である。これだけだと、別姓を認める要素はないと断定しているようだが、判決は、名前が変更されることによる不利益があることを認めている。そして、そのために、24条の検討が必要となる。しかし、24条の検討にしても、「氏は,家族の呼称としての意義があるところ,現行の民法の下においても,家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位と捉えられ,その呼称を一つに定めることには合理性が認められる。」として、例えば、嫡出子であることを示すが、該当するというのだ。不利益のためには、通称使用を認めることで埋めることができるという立場なのである。 
 14条については、圧倒的に男性の姓になるとしても、それは自由な立場で選択したものであり、性による差別とはいえない。24条の個人の尊厳と本質的平等の規定についても、同様の解釈で済ましているとしか解釈できない。
 
 この判決でもっとも重要な点は、姓は家族の所属を示すものだから、婚姻によってひとつの姓に統一させることは、「合理性がある」という論理に依拠していることである。そして、この合理性の認定にこそ、この判決のごまかしがある。
 そもそも、合理的なシステムとは、ひとつだけだろうか。確かに、婚姻によって、夫婦が同一の姓を名乗ることに「合理性」はあるだろう。しかし、夫婦が元の姓を名乗り続けることにも、「合理性」がある。実際にそのような制度となっている国家があるし、日本でも、近代以前の支配階級の家では、妻が姓を名乗るときには、旧制を維持していた。北条政子や日野富子をみればわかる。だから、統一した名前にすることが合理的であると認定することは間違いではないが、他の合理性を否定することは、まったく別問題である。
 その矛盾を露呈しているのが、寺田逸郎の補足意見である。次のような文がある。
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 法律制度としてみると,婚姻夫婦のように形の上では2人の間の関係であっても,家族制度の一部として構成され,身近な第三者ばかりでなく広く社会に効果を及ぼすことがあるものとして位置付けられることがむしろ一般的である。現行民法でも,親子関係の成立,相続における地位,日常の生活において生ずる取引上の義務などについて,夫婦となっているかいないかによって違いが生ずるような形で夫婦関係が規定されている。
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 そして、これは必然ではないが不合理ではないとしている。しかし、夫婦となっているか、いないかによって違いが生ずる形は、実は少しずつ縮まっているのである。内縁関係や非嫡出子の権利を拡大していることは紛れもないことである。そして、その方向は間違っているとはいえない。配偶者の死後受け取る遺族年金は、その後、同棲関係になると打ち切られる。そこでは婚姻夫婦と同じに扱われるのである。そして、寺田氏がいっていることは、日本において「一般的」であることは否定できないが、それはそういう「制度」になっているからであり、異なる制度、例えば、パートナーという関係を、多くの領域で同一に扱うようになれば、寺田氏の「一般性」は崩れるのである。そうした一般関係に疑問が提出された訴訟であるにもかかわらず、なぜ、現在の「一般性」のみ認めて、他の「可能性」を否定するのかは、まったく述べていないのである。
 
 寺田補足発言は、判決の補強だったが、多少批判的要素を含む補足意見が、3つある。岡部喜代子、木内道祥意見は、判決は支持しながらも、他の女性二人も同意見とする岡部意見は、96%が男性の姓になることは、本質的な平等とはいえず、24条に違反するとのべ、木内意見は、片方が姓を変えざるをえないのは、本質的平等に違反し、夫婦同姓の合理性ではなく、例外を許さないことの合理性が問題だとしている。これは、最後の部分は、非常に本質的なことを指摘しているといえる。ここまで書いているのに、結論としての判決を支持しているのは、私には理解しがたい。
 それに対して、唯一反対意見を述べた山浦善樹意見は、24条に違反するので、国家賠償の適用を受けるべきであり、したがって、差し戻しが妥当としている。不利益を受ける女性が増え、例外を許さない同姓の強制は日本だけであると書いている。
 判決に反対したのは一人だけであり、女性3名は補足意見を書いていて、その趣旨から素直に結論を出せば、判決には反対であるはずだが、結論的には、判決を支持している。
 結局、判決の弱点を本質的についているのは、木内・山浦意見の二人のみである。
 判決のように、あるシステムが合理的であるという理由で、そのシステムだけを結果的に認めるならば、他のシステムを許容するべく訴訟に訴えても、裁判では勝てないことになる。憲法的な次元でいえば、現在の合理的なシステム以外にも、合理的でありうるシステム、外国で普通に機能したり、あるいは、日本でもかつては一般的に採用されていたシステム、しかも、そこには、特別著しくマイナスの要素がないシステムは、複数ありうるのであって、現行の支配的なシステムによって、明確な不利益を被り(これは最高裁判決も認めている)、他の合理的なシステムを求めることを不可能にするような論理は、明確に間違っている。憲法の精神・基本原則に反するといえるだろう。そして、その論理が、結局は、最初から結論ありきだから、(つまり、家単位の集団を基本にするだけではなく、そこにひとつの名称をあたえる方式のみを認める)不利益があっても、現行以外のシステムを排除するというのでは、最高裁が憲法の番人とはいえない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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