トイレに行った運転手 鉄道の時間の正確さを考える

 どのような職業でも、こうしたことはあるが、やはり、とくに日本の新幹線の運転手には、大きな問題なのだろう。
 こうしたことで、まず思い浮かべるのは、日本の列車の時間の正確さの功罪である。まずは、正確に走っていることは、とてもいいことで、乗客はその恩恵に普段から浴しているわけだ。しかし、福知山での事故(絶対に遅延できないというストレスにかられた運転で、スピードオーバーで転倒脱線して、多くの死傷者をだした事故)のときにも話題になったが、あまりにこの正確さを強調しすぎると、やはり、事故につながりやすい点は見逃せない。
 様々な意見をみても、遅延に対する社会の寛容が重要ではないかという点にいきつく。
 私は2年間オランダで生活して、オランダやドイツで列車を大分利用したが、時間の正確さということでは、お世辞にもりっぱなとはいえない運行状況だった。15分遅れなら、正確だと判断されるという。私自身、オランダで生活したといっても、決められたノルマを課されての状況ではないから、いつものんびりしてよかったために、そうした遅れは気にならなかった。ただ、非常に困ったのは、いつも列車が遅れていると、今やってきた列車が、時刻表にある、これから自分が乗るつもりの列車であるかどうかを、よく迷ったことだ。もちろん、現地のひとであれば、アナウンスを正確に聞き取ることができるから、迷うことはないのだろうが、日本でもそうだが、母語のひとでないと、なかなかわかりにくい言葉で話されることが多い。まして、スピーカーを通して聞こえる声は、はっきりしない。しかも、常に親切に遅れなどについて説明があるわけではない。だから、今ここにいる列車は、時間から判断して、乗るべき列車だと乗り込んだところ、違う列車だったということが、何度かあった。2年前にドイツにいったときには、とんでもない災難に遭遇してしまったが、それも、列車の時刻表と、ホームにいる列車が違っていたことに気づかなかったことで起きたことだ。
 おそらく、現地で長く生活しているひとにとっては、間違えないこつを心得ているのだろうが、旅行者としては、間違えやすい。日本のように、時刻表の列車とその時間にやってきた列車が、まず間違いなく一致するときには、そうしたミスはないのだろう。
 だが、そのために、払っている代償が、ときとして大きな事故になる可能性があるとしたら、やはり、命よりも大切な「正確さ」とはいえない。
 考えてみると、正確さに対する感覚は、日本では常に重視されていると考えられているが、コロナ禍で起きた事態をみると、そうでもないことがわかる。
 給付金の遅れは、いまだに改善されていないし、感染状況を把握するためのアプリの不具合は、ひどいものだった。ワクチンの予約の混乱は、システム構成の不十分さの結果である。
 そして、こうした遅れや不具合に対して、あまり国民は怒らない。実は、電車の遅れに対しても、国民はかなり寛容なのではないかとも思うのだ。絶対に遅れてはいけないというのは、交通会社の自己満足にすぎず、自分たちで勝手に厳密な正確さを、現場に押しつけているだけなのかも知れない。国民がそれを望んでいると称して。
 日本の電車は、頻繁に遅れてもいるのだ。人身事故があれば、かならず数時間遅れるし、信号の不具合や、その他の原因で遅れはめずらしくない。そういうときには、ホームや改札口にひとがあふれてしまうが、そこで不満が爆発しているのを、私自身は見たことがない。みな、黙々と他の方法を探すか、会社に電話などしながら、乗れる電車が車でじっと待っている。 
 ここから考えられるのは、少なくとも、国民の正確さを求める意識に対する、過度の恐れを、企業のトップはもっているのではないかと思うのだ。
 
 もちろん、時間に正確さを求めているのは、決して、国民の要請が第一ではない。
 「日本の鉄道はなぜ時間に正確なのか--鉄道が形成した近代的時間意識」という3回にわたる枝久保達也氏の文章がある。
http://rail-to-utopia.net/2018/03/234/ これによると、日本の鉄道は、当初時間に正確ではなかったが、狭軌を採用したために、輸送力を増やすためには、たくさんの便を走らせる必要があり、それを円滑にするには、正確な時間による運転が必要だった、そのために、1920年代から30年代にかけて、大変な努力をした結果として、世界的に高い評価をえる時間に正確な運行が実現したというのだ。そして、それは精神論によってではなく、徹底した運転にマニュアル化によってであり、しかも、それは技術者と運転手の協力によって実現したという。しかし、あまりにそれが過度に強制されると、福知山の事故が起きる要因になってしまう。また、トイレ問題という、運転手にとってのストレスにもなる。
 では、正確さと運転手のストレスは、両立しないのだろうか。今後、AIによる自動運転技術が進歩し、鉄道にも応用されていけば、運転手が一時的に持ち場を離れても問題ない状況が実現するだろうし、極端にいえば、運転手が不要にもなる。一気にそこまで進むとは思えないが、飛行機などは、かなりの部分まで、自動運転が実現しているということだから、鉄道も早晩そうなるだろう。まずは新幹線のような、長距離の鉄道から、できる限り早く実現してほしいものだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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