報道では、「トイレ制限訴訟」として報道されていたが、実は、この訴訟は、もうひとつの訴因がある。不思議なことに、新聞報道ではそちらの面がどう判断されたのか、ほとんど報道されていないので、実はわからない。わからないが、争いの内容は分かっているので、今回は、もうひとつの側面を考えてみることにする。
そこに入る前に、この判決について、youtubeの一月万冊がとりあげていて、トイレ制限を認めるなどは、けしからんという話から入っていたが、相棒の安富氏が主に話しだすと、むしろ、もうひとつの側面が中心になって議論されていった。双方をとくに区別して議論していなかったが、トイレ制限と人事は、まったく異なる性質をもっていると思うのである。
もうひとつの側面とは、経産省が、正式な性転換をしないと、人事異動を認めないとしたことである。そこで、正式な性転換とはなにかという話になる。
日本の法律では、戸籍上の性の変更については、明確な規定がある。以下のようなものである。
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性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律、第三条
一 二十歳以上であること。
二 現に婚姻をしていないこと。
三 現に未成年の子がいないこと。
四 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。
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人が誕生したときに、男女を決めて出生届けをするわけだが、それは、性器の形によって決めている。したがって、この法律でも、最終的に性器の形を変えることによって、性を変えるとしている。しかし、安富氏も指摘していたが、性器の外観を変えたからといって、実は、生物的な性が変わるわけではない。性別的な性とは、男性は精子を出し、女性は卵子や子宮をもっており、妊娠・出産が可能で、母乳をだして出産した子どもを育てる機能を有しているということだ。もちろん、そうした機能が不十分な身体であるひとたちがいるが、だからといって、生物的な男女の定義は、上記の通りであろう。性転換手術をしたといっても、男性に生まれた人が、妊娠・出産できるようになるわけではないのである。将来は子宮移植手術をして、出産可能になるかも知れないが、現時点では、それは不可能である。だから、本当には、性の転換などはなされていない。安富氏は、二重まぶたにする手術と本質的には変わらないと語っていた。
そう考えると、人事異動についてはどう考えられるのか。
性転換して、性別を法的に変更することを求めることは、実は、本質的には意味がないこと、にもかかわらず、法的に規定しているが故にのみ、意味をもたされていることに、拘泥することを意味する。
本質的に生物的な男女差が重要な意味をもつ場合以外には、人の採用において、性別を基準とすることは、憲法でいう性による差別というべきだということになる。だから、この経産省の事例は、経産省の人事対応は、違憲である。
男性のみを、女性のみを採用する必要がある場面というのは、本当に例外的にしかないように思われる。ドラマの配役を決めるときに、女性の役は女性にするというのは、確かに合理的な制限だろう。しかし、料理番組の担当者は女性に限定というのは、合理性を欠くし、今どきそんな基準で採用していないだろう。現在、圧倒的多数の職種は、男女の区別を必要とするものではなくなっている。男女の差なく、能力と資質で採用することが、その仕事を機能させる上で大切になる。
とするならば、経産省が原告に、人事異動の条件として性別の変更を求めたのは、明らかに差別であったといわざるをえない。
さて、ここまでは、ごく常識的な見解に違いない。
問題は、なぜ上記の法律のような、馬鹿げた規定が存在し、それによって、ものごとが処理されているのかという原因である。
最も根本問題は「戸籍」という制度にあると考える。日本の戸籍は、男女が結婚して、子どもを生み、更にその子どもが結婚すると、新たな戸籍がつくられる。そういう婚姻と出産の系列の記録なのである。そして、もうひとつ、戸籍が、国家が国民を管理する基本単位だということだ。戦前は、戸籍に「戸主」という概念があり、戸主を通して、国民を管理していた。それが、「家族制度」である。現在は、戸主なるものは存在しないが、まだ世帯主を通しての管理は残っている。昨年10万円が配られたときにも、世帯主に家族分が振り込まれた。選挙の際の葉書も世帯主宛である。
この制度は、生物的な男女が夫婦となり、子どもを生んで育てるということを、社会的に当然あるべき姿としている。だから、同性婚やLGBTなどは、この制度のなかには入りようがないのである。したがって、上記の法律による、性転換手術によって、戸籍上の男女を変更するなどということは、大きなごまかしに過ぎない。
ところで、この戸籍という制度は、本当に社会生活上不可欠な役割を果たしているのだろうか。私は、現在は高齢者の仲間入りをして、それなりに長い人生を送ってきたが、戸籍というものが、生活上必要だと思ったことは一切ない。もちろん、手続き上求められることはあったから、戸籍謄本を取り寄せて提出することなどは、何度もあったが、それがないと、この手続きはできないと感じたことはほとんどないのである。親が死んで、遺産相続手続きをする際には、親が出生する際の戸籍まで遡って取り寄せる必要があった。私の父は、なんどか戸籍を移動させていたので、かなり大変だった。しかし、その戸籍の集積が、なぜ遺産の相続に必要な書類なのかは、まったく理解できない。私がなくなった親の子どもであることを証明すればいいだけのことではないか。それは、出産届けを出したときの証明があればよいはずだ。マイナンバーがそういう証明として活用されるかどうかはわからないが、北欧の国民総背番号制度は、出生時に交付されるから、当然そういう機能をもっている。
あわせて、現在のヨーロッパでは、当然旧式の婚姻制度は残っているが、結婚しないまま事実上の夫婦として生活し、子どもをもっている者もいる。法律上の夫婦も含めて、基本は、パートナーという概念で役所では管理している。そして、ここが、重要なことだが、パートナーというのは、パートナーとして一組で届けられているのではなく、個人的の届けのなかにパートナーを記入している。つまり、家族の管理ではなく、個人の管理なのである。
戸籍が前提としている家族は、男女の夫婦と、彼等から生まれた子どもによって構成される。しかし、離婚が多くなれば、親と子どもが、生物的に必ずしも繋がっていな場合もあるし、同性婚で子どもをもっている場合には、養子の場合もあるし、あるいは、婚外子で前に出産した子どもである場合もあるだろう。要するに、現代社会では、男女の夫婦と彼等から生まれた子どもという前提が、成立しない家族はいくらでもある。けっして、少数派ともいえないのである。そして、そのことによって、例えば、離婚した相手が、子どもを育てている元妻に養育費を払わない例も少なくないし、また、戸籍上の親子関係が、必ずしも生物的な親子ではない場合だってあるだろう。
結局、現在の多様な形態をとるようになった家族においては、財産関係、養育・扶養関係等が、戸籍の枠には納まらないのである。そのことが、トラブル要因となることもある。戸籍という制度は、国際的にみれば、極めて例外的なものであることを考えれば、実は必要性などないのである。国家と国民は、個人として繋がり、パートナーや同居の家族、そして、扶養関係も、個人として記録しておくほうが、むしろ合理的な管理になる。
そういうシステムになれば、生物的な男と女が本質的に不可欠な区分である以外は、性別を考慮しない対応が可能になる。学校の入学や企業・公務員の採用は、既に、ほとんどの場合、性別を考慮しない。(男子校・女子校問題は、別に考えたい。)だから、やがては、経産省のこの事例のようなことは、起きなくなるに違いない。
もっとも、そういう制度的な措置と、人間の感情は異なるから、直ちにみんなが、男女の区別をしない人事を感情的に受け入れない人もいるかも知れない。しかし、制度をきっちりと運用していくことによって、やがてそれが自然なものになっていくのではないだろうか。