「仮定のことには答えられない」空虚な言葉の横行

 「安全・安心のオリンピック」という言葉は、虚しい響きをもって、これまで語られてきたもののひとつだ。最初は「復興五輪」だった。そして、「コロナに打ち勝った証としてのオリンピック」、そして、「絆を示すオリンピック」。これらは、すべて虚言であったし、いわれたときから、虚言だといわれてきた。
 もうひとつ、オリンピック推進者たちの、許しがたい言葉に、「仮定のことには答えられない」というのがある。これは、何度も繰りかえされているのだが、最近は、コーツ氏が、「緊急事態宣言下でもオリンピックを開催するのか」と問われて、まったく疑いもなく、「そうだ」と答えたのに対して、同じ質問を外国の記者が、武藤組織委員会の事務局長に向けたところ、「仮定のことには、答えられない」と質問への回答を拒否している。できることなら、ではコーツ氏の言葉については、どう思っているのか、としつこく追求してほしかった。

 こういう答え方がいつから始まったのだろうかと思い、少し調べてみた。朝日新聞の検索結果では、最初に出てくるのが、1985年の国会質疑である。中曽根首相の時代で、靖国参拝が国会で取り上げられたときのことだ。社会党矢山友作氏が、「天皇から靖国神社公式参拝をやりたいと聞かれたらどうするか」という質問をし、首相が国家の象徴である方の問題については、仮定の質問には答えないほうがいいと思う。」と回答しているのである。
 この回答は、合理性がある。というのは、仮定といっても、当時の天皇自身が、靖国参拝を忌避していたのだから、ありそうもない仮定であるし、天皇自身は、国家的行為を、自分自身の意志にしたがって、何かをやることを希望するということは、憲法上認められていないのだから、そういうありえないともいうべき仮定の質問と規定することは、納得がいくことである。もし、ここで、「天皇が参拝したいといったらぜひ、実現させたい」とか、「天皇がそういう希望をだすはずがない」とか、あるいは、「天皇は私人としての側面をもっていないから、とめようと思う」などということを言ったとしたら、それこそ、大問題になるだろう。つまり、仮定そのものが、ほとんど成立しないものである以上、「答えられない」というのは、納得できる。
 次にヒットしたのが、2012年、野田内閣のときの消費税率引き上げの議論の最中のインタビューで、「消費税法案が不成立になった場合の市場への影響」を質問されて、白川総裁が「仮定の質問には答えない」としつつ、「財政の持続可能性の維持が大事で、それが中央銀行総裁の責務だ」と答えている。当時の民主党野田首相が提起していた消費税力引き上げ案が議論されていたときで、自民党、公明党は賛成だから、法案はほぼ成立がかたかった。したがって、この場合でも、仮定が実現する可能性は極めて低かったし、答えないとしつつも、原則的な答えは述べている。
 ここまでは、なんとなく納得できる拒否である。しかし、2014年の愛知県知事選で、知事選の前に衆院解散があるかも知れないという状況で、総選挙で特定の候補や政党を応援するかと質問され、大村秀章氏は、「仮定の質問には答えないほうがいい」と回答し、小松民子氏は、共産党系なので、共産党の応援をすると答えている。この場合の、大村氏は、多数の政党の推薦を受けているから、本当に回答ができなかったのだろう。逃げの回答であることは、否定できないが、質問そのものがかなり回答不能なことをきいており、一種の切り返し術といえないこともない。
 そして、次に菅首相のことがでている記事に続く。
(ただし、麻生首相が多用していたという指摘がある。2009.1.13「仮定の質問には答えられない」https://docs.google.com/document/edit?id=1IDSpI1xH7j0HPa6cCqD3cxUbtuluG7L_yuHJ54OtVHY&hl=ja
 
 こうして見ると、「仮定のことには答えない」という回答は、決して、常に言い逃れというわけのものでもないことがわかる。しかし、安倍前首相や官房長官だった菅氏、そして、首相になってからも、頻繁に「仮定のことには答えられない」という回答を多用するようになって、こうした回答についての疑問も起きている。
 肯定する見解もある。Quoraでの「なぜ官公庁などは仮定の質問には答えないというのでしょうか?」という質問に対して、川本 晴夫という人が、「官公庁にも、民間企業にもいましたが、どちらも関係なく「仮定の質問」には答えません。質問の内容にもよりますが、まず、「仮定」ではその答えを「想定」していません。「仮定」という場合、そのバリエーションが無限に広がっていく可能性があるのです。」と回答して、「仮定の質問に答えられない」というのは、「正直な気持ちなのだ」と書いている。
 しかし、彼が、武藤氏の緊急事態宣言下での開催を「仮定のことは答えられない」と述べたことについても、同様に回答できるか疑問である。
 まず、仮定といっても、7月から8月にかけて、緊急事態宣言が発出される可能性は、必ずしも低くはない。昨年の感染状況から判断できるし、変種株で感染拡大する危険性は、専門家によっても指摘されている。したがって、十分におき得る仮定である。もし、答えられないというのが、正直なところだとしたら、運営責任者として、無能力であることになる。
 もし、それなりに想定して、準備しているにもかかわらず、回答したくないというのであれば、公的任務についている者として失格であるし、国民に反発されることで、かえって成功を危うくさせる危険性もある。不誠実であり、やはり、無能である。
 あまりに、何度も使われているので、「そうなのか」と思う人もいるのかも知れないが、仮定のことには答えられないというのは、単なる責任逃れ、説明責任の回避、そして、遂行能力の欠如を示しているだけのことだ。そもそも、組織の準備というのは、様々な仮定を設定して、どういうことが起きたらどうするのか、ということを、最大限緻密に想定して、対策をとることだ。武藤事務局長だって、愚かな人間ではないのだから、そういうことは確実に実行しているだろう。しっかりと仮定に応じた対策をとっているなら、それを率直に回答すればいいことだ。そうすれば、メディアだって、きちんと報道するだろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です