「本所・桜屋敷」は鬼平犯科帳の第二話であり、第一話の途中から、火付盗賊盗賊改方になり、本編では、第一話で取り逃がした小川や梅吉をとらえるための捜索をしているが、20年前、平蔵が憧れていた女性が、堕落して、盗みを働く中心になって捕らえられるという筋になっている。そして、平蔵の最も重要でかつ最初の密偵となる相模の彦十と出会う。
鬼平犯科帳では、平蔵は、本所で育ったが、現在は目白に屋敷があることになっているが、実際の長谷川平蔵は、ずっと本所に屋敷があり、そこが役宅、つまり、火付盗賊盗賊改方の本拠地でもあった。何故、作者が火付盗賊盗賊改方に、特別の役宅(清水門外)を設定したのかは不明だが、とにかく、20年ほど訪れることもなかった故郷に帰って来たような雰囲気で始まる。本所にきたのは、梅吉をみたという密偵からの報告があったからである。そして、昔通っていた道場のとなりの桜屋敷と呼ばれていたあたりで、思い出に耽っていると、とつぜん真剣で切りかかられる。だが、それはかつての剣友である岸井左馬之助であった。ふたりは久しぶりの再開を喜んで、旧交を温めるが、かつて互いに憧れていたおふさが離婚して、このあたりにいるということを、左馬之助から聞かされる。
また、平蔵の生育歴を比較的詳しく説明しているが、正式の家系に関する部分以外は、だいたい事実ではない。父宣雄は、跡継ぎではなかったため、下女の園に手をつけて生ませたのが平蔵で、しばらく園の実家である巣鴨で暮らしていたが、長谷川家の当主(甥)が死んだために、当主の妹波津と結婚して、長谷川家を継ぐ。しかし、波津が平蔵の受けいれを拒んだので、17歳まで平蔵は巣鴨で暮らした。そして、やっと本所に迎えられたが、波津の冷たい仕打ちに耐えかねて、無頼放蕩を尽くしたが、剣術だけは一生懸命に努力したということになっている。園は、宣雄が長谷川家を継いだあと、直ぐに悲嘆して病死してしまうことになっている。
しかし、実際の実母は平蔵が死んだときにはまだ生きていたとされているし、また、庶子であろうと、他に男子がいない状態で、粗末に扱われることなどは、旗本ではありえないとされているので、武士の子どもとして、しっかり育てられたはずである。しかし、これはあくまでも小説なので、大枠としては事実を基本にしているとはいえ、小説としての面白さを増すためには、有効な変更だったともいえる。
おふさが、嫁入りするために舟にのっていく場面を次のように書いている。
「その日・・・横川に浮かべた数艘の舟へ、花嫁と立派な嫁入り支度をのせ、これがゆったりと水面をすべって行くのを、平蔵と左馬之助は、道場の門外に立ち、青ざめた顔で見送った。」
長谷川平蔵を演じた中村吉右衛門は、シリーズが終了したあとのインタビューで、最も難しかった場面はどこですか、と聞かれて、迷わず、この場面の撮影だったとのべている。40代後半の吉右衛門が20歳の平蔵を演じるわけだから、ただ、立っているだけなのだが、照れくさかったのだろう。
左馬之助と別れたあと、平蔵は、梅吉を見失ったという場所にいくと、そこで、とぼとぼと見すぼらしいかっこうで歩いてくる彦十に再開する。そして、五鉄(平蔵昔なじみの軍鶏鍋屋)で話しているうちに、梅吉がはいったと思われる服部格之助にいたことを聞く。そして、身分をあかして、協力を求める。そうして、彦十の聞き込みによって、梅吉がいること、そして、服部屋敷に出入りしている連中で強盗を企んでいることがわかり、事前に急襲して、格之助、梅吉、おふさその他を捕らえてしまう。
おふさは、幸せな結婚生活だったが、主人が死んだあと追い出され、貧乏御家人の服部と再婚し、恨みを晴らすために、かつての婚家を襲って、自分を追い出した主人を殺害するつもりだったのである。この物語の白眉は、おふさの取り調べと、それを影から見ている平蔵と左馬之助の思いが錯綜するところである。左馬之助はわなわなとふるえていた。そしておふさは、悪びれることなく、犯行を堂々と説明していく。
「おふさが白州から引き立てられるときに、平蔵と左馬之助は、たまりかねて詮議場へ出ていった。
白州に立ったおふさは、詮議場へ、急にあらわれた二人の男に気づいて、これを見まもったが、彼女の表情はみじんもうごかない。
まったくおふさは、平蔵も左馬之助も忘れきってしまっていたのだ。」
そして、左馬之助の両眼からは、ふつふつとして涙がわきこぼれているではないか、と作者は書いている。
ここに登場している男たちの誰よりも、おふさが、堂々として、悪事を恥じずにいるのが、いかにも、鬼平犯科帳の哲学を表しているように思われる。そして、左馬之助がいかにおふさを思っていたかに、平蔵は驚いている。
犯罪を扱う小説は、どこかに無理があることが多く、「鬼平犯科帳」も決して例外ではなく、納得のいかない展開になっている話がいくつもある。しかし、この「本所・桜屋敷」は、平蔵が青春を送った土地への思い、真っ直ぐな気持ちをもった剣友の岸井左馬之助、暴れ者だろうが、盗賊改方だろうが、平蔵に常に忠実で入れ込んでいる彦十、そうした常連が登場して、それぞれの役割を果たしている。
また、捉えられた御家人の服部格之助は、武士でありながら、みっともなく命乞いをする。(斬首となる)小川や梅吉は、犯行の動機を無表情に、しかし、詳しく白状する。おふさと情を通じ、おふさが、近江屋(おふさが嫁入りした商家)に押し入ろうといいだしたのだという。そして、おふさも悪びれることなく、近江屋に復讐して殺害するためだったと述べる。
悪党が堂々として、善人の左馬之助がうなだれている。
善人が悪をなし、悪人が善をなす、その境はあいまいだという、平蔵の考えが当初から表れていたことがわかるのである。