今日は憲法記念日だ。だが、テレビのワイドショーでは、あまりこの話題を扱っていなかった印象がある。しかし、流石に新聞は、社説でそれぞれの立場が鮮明になるような社説を掲げている。社説を参考にしながら、憲法についての見解を自分なりに確認しておきたい。
各社説に共通しているのは、コロナ禍に悩んだこの一年を踏まえて、このような大きな自然災害というべき現実に、憲法はどのように関係しているのかを問うていることである。しかし、結論は、極めて明瞭な相違がある。
朝日、毎日は、憲法に欠陥があるために、コロナ対応が不十分だったのではないという認識を示している。朝日は、現在起きている事態は、現憲法で対応できるものだとして、更に、毎日は、憲法を無視して、営業の自由等を制限しており、政府は「安全か、自由か」という選択を迫っているかのようだが、これは対立するものではなく、共に守るべきものであるとする。つまり、憲法を活用すれば、コロナ対策は十分にできるという。
それに対して読売、産経は、憲法的な欠陥がある故に、コロナ対策ができない面があったことと、特に、中国への対応が十分にできないことを強調する。私権の制限や罰則、あるいはロックダウンのような劇薬のような対応が不可能であったことをいっているのだろう。
そして、産経は、軍事的な同盟について大きな部分を割いている。「平和を守っているのは9条ではなく、アメリカの抑止力である」という認識の下に、自国の防衛に関係しない同盟関係も、もっと結びたいという姿勢を示している。当然中国対応もある。
さて、以上のようなことを考慮にいれつつ、憲法の改正問題について考えてみる。
コロナ禍で、現行法規では、「私権の制限」をする規定がなく、そのために緊急事態ともいうべきコロナ禍に十分な対応できないのだというような見解が、頻繁に示されてきた。しかし、これは二重の意味で正しくない。
第一に、「公共の福祉」という理由で、国家はこれまで私権の制限をずいぶんと行ってきた。だから、本当に必要ならできないことはないのだ。そして第二に、現に、特措法の改正によって、あるいは、そうした法的措置とは無関係に、営業の自粛を要請したり、あるいは命令をしてきた。しかし、政府は一貫して、実はそうした制限には消極的であった。その理由は、私権を制限したくないからではなく、補償をしなければならないからである。また、十分な補償をすれば、営業の自粛を経営者たちは、躊躇なく受けいれただろう。十分な補償をするためには、たしかにそれに見合う法律がなければならないが、そうした法律があれば、十分な補償をして、営業を徹底的に制限したかどうかは、きわめて疑問である。明らかに政府は、「補償」に財源を使いたくないからである。
つまり、現憲法で十分にコロナ対策はできたのであって、不十分性を憲法のせいにするのは、政府の失政を糊塗しているだけだ。コロナ対策は明らかに失政の連続だったが、それは、やり方が間違っていたからであり、そして、やる気がなかったからである。ワクチン交渉の失敗に、如実に表れている。
そして、常に憲法問題の中心である9条問題だ。
産経は、「平和を守っているのは9条ではなく、アメリカの抑止力である」と主張しているが、これは、半分は正しいと思うが、半分は正しくない。本当に、中国や北朝鮮、あるいはロシア(ソ連)が、日米安保条約がなければ、日本に攻めてきたかどうかは確かではないが、アメリカの存在が、そういう意志があったとしても、それを防いできたことは否定できないだろう。
しかし、他方、アメリカはベトナム戦争からはじまって、アジアで、どう考えても正当化できない戦争をしかけてきた。アフガニスタン、イラク等。もし、9条がなければ、確実にアメリカは日本に対して、共同して参戦せよと迫ってきただろう。いくら迫っても、日本は、9条を楯に、断ることができたのである。だからこそ、アメリカは、憲法改正を日本に迫ってきた。自民党は、9条を無くしたいという政党だから、9条があるにもかかわらず、アフガニスタン戦争のときには、給油の援助をしたし、イラク戦争では自衛隊を派遣した。もっとも戦闘には関わらなかったが。
尖閣への対応という点でも、産経新聞のような見解は、歴史的経緯を無視している。
戦後の日中和解の中で、尖閣は「棚上げ」をしてきたのだが、それを破ったのは、実は日本側なのである。棚上げをすることで、日本も中国も、特段の支障はなかった。状況の変化は、尖閣列島周囲に石油が埋蔵されているという推測が流れてからである。しかし、それも現在では経済的に見合うほどの埋蔵はないとされており、その点での争いの契機もなくなっているし、日本側が石油採掘に熱意を示したことはない。
この関係が変わったのは、民主党政権下で、日本が主張する領海で漁をした船長を、日本が逮捕したこと、そして、そこで拗れてしまった「解決策」として、日本が尖閣を国有化したと宣言したことにある。これで尖閣の「棚上げ」状態、つまり、紛争の種ではない状況に戻れなくなってしまったのである。いや、本当は戻れるに違いないが、ここから火がついた反中国感情で、自ら戻ることを閉ざしてしまったのが、今の自民党政権であろう。もっとも、国有化したのは、民主党野田政権であるが、そのきっかけとなったのは、石原都知事であった。つまり、自民党にも民主党にも責任があるのだ。
この問題については、この経過をみれば、憲法を改正して、軍備力を増強することによって、解決を図るものではないといえる。
さて、自民党の憲法改正案もざっとだが読んでみた。これは、とても未来の日本建設のための憲法改正とは思えないものだ。とにかく、集団的自衛権や軍隊を正式認定することに主眼が置かれ、基本的人権については発展させるよりは、制限に重点が置かれているようにしか読めない。新しい人権は環境権のみである。そして、教育基本法の改定と共通の伝統的価値観の強調が現憲法より前面に出ている。このような改定には全体として、到底賛成できるものではないと感じる。
それにしても、自民党の改定は、あまりに9条に偏り過ぎる。本当に憲法を少しずつでも変えていきたいのならば、国民のほとんどが賛成する改定をまずやって、憲法は時代に応じて変えていくものであるという意識を、国民に納得させることが重要なのではないだろうか。明治憲法も、現在の憲法に、一度も改定されていない。(現憲法は、明治憲法の改定という「形式」をとっているが、実際には、まったく新たにつくられたものであり、憲法学の観点からは、革命が起きたのである。)それはやはり、いいことではない。70年も経てば、社会そのものが大きく変化するわけだから、時代に合わない部分はいくらでも出てくるし、一端やってみたけれども、改善する余地があるという部分もあるはずだ。しかし、9条があまりに強い対立になっているために、そして、改定派の主眼が9条にあるために、必要な改定すらできない状況になっている。自民党にとっても、他の部分から入るほうが、結果的にはいいことなのではないだろうか。
そのためには、基本的人権の拡充から入るべきである。