朝日新聞2021.4.29によると、2013年の体育大会で、ダンスの練習でうまく踊れなかった女子生徒が、個人的な練習を強要されるなどのいじめを受け、携帯電話で遺書とみられる文章を残して、自宅で首をつった件で、母親が県と同級生7名を提訴したという。同新聞によると
・練習をしていたのが3月である
・自殺は4月である。より早い時期の朝日の報道では5月。
・学校が設置した調査委員会は、「いじめはあったが、自殺はいじめだけが要因と確定できない」とした。
・県が設置した第三者委員会は、「心理的負担の限界を超え、結果的に死の選択につながったと考えられる」として、いじめを自殺の要因のひとつとした。
・母親は学校の調査が不十分で、加害者からの謝罪がなかったことが精神的苦痛であった。
・携帯電話の履歴、同窓会名簿、学校が実施したアンケートなどから、7人を特定した。
・何があったのか、誰が加害者か知りたい、学校は信用できないと、母親は話している。
熊本日日新聞によると、母親は「受け取った高校と県の調査報告は、核心部分が黒塗りになっていて娘の周りで何が起きていたのか、いまだに分からない。提訴することで、何が起きていたのかを知りたい」としているという。https://kumanichi.com/news/id192623
いじめによる自殺や部活での無理な練習による事故が、訴訟になるのは、これまでにも何度か指摘したように、学校の対応に不信感をもった結果である。この事例でも、それがよくわかる。
第一の不信は、学校の調査委員会に対するものだったろう。報告書そのものを読むことができないので、正確な紹介であるかは留保される必要があるが、「イジメはあったが、自殺はいじめだけが要因とは確定できない」というのは、いかにも言い逃れ的表現である。「いじめだけだ」とは断定できないことは、確かにそうだろうが、県の第三者委員会の「いじめがひとつの要因」というのと、実質的には違わないのに、学校の報告書は、「いじめが要因ではなかった」といいたげであり、責任がなかったというようなニュアンスを感じるが、県のほうは明確にいじめが要因のひとつであったことを認める姿勢をだしている。こういうニュアンスの違いも、当事者にとっては重要な「感情的」しこりを生む要因となる。さらに、報告書が黒塗りだったというのが、驚きだ。おそらく、加害者とみられる生徒の特定がなされるような部分が黒塗りになっていたに違いない。
こういう場合、加害者生徒は、当然遺族に対して、真摯な謝罪をすべきであるし、学校としてはそれを促すべきであろう。そういう措置をとっていれば、報告書は第三者が読む可能性があるので、黒塗りをするのも仕方ないし、また、遺族が不満に思うことはないだろう。しかし、謝罪はなく、加害者が誰であるか、どのような行為をしたのかが、まったく知らされていないとすれば、黒塗り措置は、謝罪を一切拒むことを容認することになる。遺族としては、加害者に質問したかったに違いないし、それは理解できることだ。しかし、その部分を黒塗りにするのだから、遺族側から加害者に質問することも不可能にしてしまう。
不信感をもったのは、この黒塗り措置がもっとも大きいのではないだろうか。
いじめとして行われた体育大会のダンスについても考える必要がある。記事では、学外の大会なのか、学校行事なのかはわからないが、後者であるとして考えてみる。 (県の報告書に基づいたブログでは体育祭となっているので、やはり学校行事であるとは思われる。https://kyouiku.blogto.jp/archives/8488041.html)
私は運動会廃止論なので、多少不徹底な議論になるが、最低限、ある種目を学年統一、学年全員参加にすべきではないと考える。運動には得手不得手があり、しかも、特に高学年になるほど、そうした差異は大きくなり、苦手な者にとっては苦痛以外のなにものでもないと感じられるようになる。それを強制されて、しかもうまくできないことを、厭味に言われれば、当然人格を否定されたように感じてしまう者もいるだろう。特にダンスなどは好き嫌いも大きいものだ。高校生ともなれば、自分に適したものとそうでないものは自覚できるし、多種目から選択が可能であれば、不快な気持ちをもつこともなくなるだろう。その高校生はみなが、ダンスを決められたように、うまく踊れなければならない、などということはない。学校教育は、人々の成長を促すものであって、いじめを誘発したり、あるいは自信をなくさせるためにあるのではない。体育祭のありかたは、もっと柔軟なものにしなければならない。これはけっして、一部加害者たちの暴走だけが問題であるのではない。学校教育としての問題である。