読書ノート『レコードはまっすぐに』ジョン・カルショー

 そのひとつがルービンシュタインが、ヨーゼフ・クリップスの指揮で録音したモーツァルトのピアノ協奏曲である。曲名は書かれてすらいない。カルショーら制作陣のほうでお蔵にしてしまったようだ。当時ルービンシュタインは、70代後半で、自分は老人だから、録音で音を大きくとってほしいというので、年齢のためにあまり大きな音で弾けないのかも知れないと、カルショーは思ったが、実はそうではなく、ルービンシュタインはガンガン音を鳴らし、クリップスはオケの音を抑えて指揮している。クリップスにもっとオケを大きめに、録音スタッフが申し入れても、抑えたままだ。これはあまりにバランスが悪いので、音の調整でピアノを抑え、オケを大きくしようとしたが、2本マイクでとっているために、そうした調整ができない。あとあと考えてみると、クリップスという指揮者をルービンシュタインが選んだのは、自分の要求に合わせてオケを抑えてくれるからだ、ということがわかり、こんなものは商品にできないということで、発売しなかったというわけだ。
 考えてみると、確かにルービンシュタインのモーツァルトというのは、ほとんど発売されていないと思う。ルービンシュタインといえば、やはり、ショパン、ラフマニノフといった華やかな色彩感のある音楽を思い浮かべるので、モーツァルトというイメージではない。それは当初からカルショーも考えていたようだが、ルービンシュタインの企画を飲まざるをえないが、しかし、それでもできが悪ければお蔵にしてしまう、という力関係の不思議さが面白い。
 もうひとつ、スウェーデンの歌手ビョルリンクの話だ。ショルティ指揮のヴェルディ「仮面舞踏会」だが、主人公のテノールを歌っているのはカルロ・ベルゴンツィだ。しかし、私もこの本で知ったのだが、当初ビョルリンクが予定されていたそうだ。しかし、ローマに集まった音楽家たちが、リハーサルや本番(部分的に収録していく)が進んでいるのに、ローマにきているはずのビョルリンクが現れない。ホテルに確認にいくと、ウィスキーを飲んで完全に泥酔しているというのだ。説得して、その場で承知しても、やはり現れない。そこで、とうとう他の音楽家たちとの契約期限がきてしまったので、残りは翌年にまわし、その間に新しいテノールを見つけておくということになって解散になったそうだ。そして、後日談が書かれていて、少しあとに、ビョルリンクの死がカルショーにもたらされたということと、この書物(原書)が出版されたときに、ビョルリンクの夫人から抗議があり、当時ビョルリンクは酒など飲んでいなかったと主張されたという翻訳者の注釈がついている。カルショーが自分のミスを隠すために、虚偽のことを書いているのではないかというのである。どちらが正しいかはわからないが。
 カルショーといえば、ショルティとの「ニーベルンクの指輪」(ワーグナー)の世界最初の全曲録音が最も有名であるが、残念ながら、この話題については、その名を冠した書物があるので、ここにはほとんど書かれていない。最初の「ラインの黄金」が成功したこと程度が触れられている。しかし、ショルティとの関係はいくつも出てくる。ショルティがバイエルンの指揮者だったころに聴いたことがあるそうで、最初の関係は次のフランクフルトの指揮者のときだったそうだ。しかし、レコーディングのパートナーとしては、なんといってもウィーン・フィルとの一連の仕事だろう。このコンビは、ショルティがシカゴにいくまでは、デッカにとっての黄金のコンビであり、数々の名録音を残している。しかし、ウィーン・フィルはショルティが大嫌いであり、ショルティもそのことを十分に知っているので、楽しく仕事をしていたわけではないことは、クラシック音楽界では有名な話だ。ショルティの言葉に、「私が一番憂鬱な気持ちになるのは、ウィーンの空港に着いたときであり、一番幸福な気持ちになるのは、ウィーンを離れる車に乗ったときである」というのがある。それだけショルティも「嫌な」仕事だったのだろう。しかし、ショルティがウィーン・フィルを嫌っていたわけではないはずである。嫌っていたのはウィーン・フィルのほうだ。それは、ショルティがウィーン・フィルに遠慮なく厳しい指摘をして、妥協のない指揮をするからである。ウィーン・フィルの有名な言葉に、「よい指揮者とは、自分たちの邪魔をしない指揮者だ」というのがあるが、ショルティは邪魔ばかりする指揮者なのだろう。しかし、できあがったレコードを聴くと、確かに優れた成果をあげていることは認めざるをえないので、デッカがショルティを指揮者として指名すことについては受けいれていたわけだ。互いのわだかまりがなくなって、ウィーン・フィルの定期演奏会の指揮者として招待するようになるのは、ショルティの晩年のことだ。
 ただ、カルショーはショルティをベートーヴェン指揮者としては認めていなかったようで、ショルティはウィーン・フィルとベートーヴェンの交響曲全曲を演奏したがったが、カルショーは認めず、妥協として、3、5、7を録音して成功したら全部やることになったが、結局あまり売れず、評価も低かったので、立ち消えになったという。シカゴで全曲録音されたが、カルショーはそれについても、わざわざあまりよいとはいえないと書いている。(つづく)
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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