オランダ留学記5 学校選択2

 オランダでの生活も順調に進み、子どももオランダの学校に慣れてきた時期のことである。いくつもの学校を訪問して、確かに、オランダにはいろいろな種類のが教育スタイルがあるのだということを実感していった。しかし、制度というものは、100%すばらしく機能するということはない。制度も悪用すれば、まずい結果が生じるし、多様な教育に応じるといっても、完全に要求に則した多様な学校を設立できるわけでもない。また、多様な教育に分かれていては、国民的なまとまりが形成できないではないかという、選択に否定的な意見だってある。「教育の自由」や「学校選択」について、国民のほとんどは賛成しているが、具体的に問題が生じることもあるし、また、意見か分かれることもある。そうした紛争ともいうべき事態を紹介した文章である。
 
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23 学校選択をめぐる紛争
                                            93.4.1
 
 確か昨年の秋に、義務教育に関する論争がここであったと思います。実はそのログは、丁度そのとき日本に一時帰国したので、日本でとり、こちらに持ってきていないので、内容を確認することができないのですが、なにかまだ中途半端で終わった感じがしています。何人か書いていたと思うので、出来たら続きをしてほしいと思っています。

 選択の自由が論議のひとつの主題だったと記憶していますが、オランダでこの「学校選択」に係わるホットな問題が生じています。
 これまで何度も紹介したように、オランダでは基本的に学校選択の自由が保障されているのですが、選択が実質的な意味をもつためには、いろいろなメュ-がないといけないわけですが、しかし、たくさんメニュ-を用意することは、財政的にとても無駄なことになるわけです。
 オランダのかなり南部中央のウ-デンというところで、おきている問題です。もっとも、こちらでは教育問題が、継続的に報道されることはあまりないので、少ない情報です。 ウ-デンというのは、カトリックの地域のようで、中等学校がすべてカトリックであるようです。しかし、カトリックの地域といっても、他の宗派や宗教の人も当然いるわけで、カトリックの学校は嫌だという人もいるでしょう。
 1987年に、そういう人のために、カトリックの中学の一部を公立学校として運用するという妥協が成立し、今日に至ったようです。因みに以前紹介したように、いろいろな学校種類が、中等学校ではあるのですが、通常いくつかの種類が同居しています。しかし、宗教的に相違する種類の学校が同居している例は、ほとんど聞いたことがありません。 公立学校というのは、自治体が作る無宗教の学校なのですが、その地域には、公立学校がないのです。しかし、カトリック以外の人たちは、せめて無宗教の学校を、と望むので、公立学校が欲しいわけです。もちろんプロテスタントの人たちは、プロテスタントの学校がいいのだろうけど、それは要求が飛躍するので、せめて無宗教ということでしょう。 それでとにかく公立学校のスペ-スがもっと欲しいということで、自治体の学校を監督する部局が、カトリックの学校もすべて含めて管理し、総合的に運用するという案を出してきたのです。もちろんそれは、カトリックの範囲を狭めて、無宗教あるいは、プロテスタントの部分を導入しようという意図が込められているし、また宗教学校と言えども自治体の教育当局が監督するという意図もあります。文部省もそれを基本的に支持しているようです。
 当然カトリックは大反対しており、もしかしたら、オランダ全体に波及するかも知れません。
 以下新聞の記事の紹介です。
 
 ウ-デンで、CDAの市会議員のP.Rüppリュップが、カトリックと公立の中等学校を統合し、RK-Kruisheren-college, RK-Comenius-College, stichting Katholik Beroepsonderwijsを一つの行政組織で統括するという提案を行い、第二の学校闘争という様相を取っている。文部省も是認していて、オランダ全体に波及するかも知れない。
 文部次官Wallage(PvdA) へのインタヴュ-
「憲法には抵触しないということですか」
 「問題ない。諮問委員会でも討論している。私立化するので、新たな選択が可能になる。」
「一括されたら、カトリックの中等教育を受けたいと思っている者はどうなるのか」
 「ウ-デンにはカトリックの中等学校が3校あるが、公立はない。1987年にひとつのカトリックを公立と兼用するようにしたが、それでも希望者からすると少なすぎる。カトリックの敷地に公立を建設するという案をもったが、カトリックは明確に否定した。リュップの案は、管理を一括するということだから、とてもいい。今の状態だと、選択といっても、実は狭すぎる。」
「公立学校を建てるのは、自治体の義務であって、カトリックとは関係ない。自治体の経済状態で、憲法の自由を制限していいのか。」
 「そういうことではない。お金の問題ではなく、最適性の問題なのだ。」
「公立と私立が同居しているような教育工場では、アイデンティティが形成されないではないか。」
 「カトリック、公立、プロテスタントなどの特別の委員会を設置するので、それは解決できる。我々はカトリックプラス、公立プラスというような水準で考えているのではない。」
「オランダ全体への試験のような位置づけなのか」
 「そうだ。われわれは新しい時代の教育を考えねばならない。カトリック全体の反応もみている。」(以上)
   
 オランダでは1920年まで、宗教をめぐって「学校紛争」が争われたのです。それは宗教学校にも公費補助をするかという問題だったのですが、「する」ということで、今日まで来ました。以来、宗教学校と公立学校は費用的に平等な立場に置かれ、一応自由に「選択」できるということになりました。
 しかし、それは建前で、このように地域にばらつきがあり、実際には不本意な選択しかできないということもあるわけでしょう。
法律的には自治体には「義務教育学校」を公立学校として設立する義務があるように思われますが、オランダの中等学校は、非常にたくさんの種類に別れているために、公立学校をきちんと設立することは、まず不可能です。だからウ-デンのように、地域がカトリックで、カトリックの学校が十分あれば、それで誰もがよしとしてきたのでしょう。
 しかし、戦後住民構成がどんどん変化しました。EC規模、アジアアフリカ規模での人口移動があるのですから、こうしたカトッリクだけの学校で間に合うはずがありません。 それに加えて、選択の自由に対して重大な問題を投げかける事態が生じたのです。それはイスラム教徒の増大です。イスラム教徒が増大する前は、わずかな「公立学校」を建てるだけで、済んだのです。例えばウ-デンにいるプロテスタントの人達は、プロテスタントの学校を要求する人と、公立学校を要求する人がたくさんいて、という事態ではなく、少数だから、公立学校でよかったわけです。
 しかし、イスラム教徒は違う行動を取りました。「イスラム学校」を要求したわけです。オランダではとても大綱的な基準を満たして学校を設立すれば、国は財政補助をしなければならないのです。そうして少しずつ「イスラム学校」が出来ています。
 ところで西欧では「国家と教会の分離」というのが、近代国家原則なのですが、実はオランダはその点が少々曖昧なのだそうです。つまり、国家は教会を援助しているのです。日本の非課税というのも、援助だと私は思いますが、こうした消極的なものではなく、もっと積極的に教会活動に対して補助したり、場所的な援助をしたりするようです。
 ところが「イスラム」となると別です。何といっても、「キリスト教国家」ですから、オランダ国家として、少数派キリスト教を是認するのとは違うのです。それに、「悪魔の詩」問題でのイスラムへの問題視もあります。
 それで、先の財政効率の問題と、イスラムの問題とが合わさって、オランダ政府として、宗教を軸とする「選択の自由」に対して、根本的な検討をしようという動きがあるのではないか、と私は想像しています。今回のウ-デンの事態は、その実験なのではないか。 この問題は、また次回新聞に何かあったら紹介するとして、ヨ-ロッパに来て、イスラムへの理解が本当に欠けていると実感しています。
 ヨ-ロッパのニュ-スはテレビ・新聞を問わず、戦争で埋まっています。私はときどき、既に「第三次世界大戦」は始まっているのではないか、と思うことがあります。現在の世界での戦争は、第1次大戦のときより、はるかに大規模で悲惨なのではないでしょうか。そして、世界戦争と感じるのは、そのほとんどに「イスラム」が絡んでいることです。もちろん「イスラム原理主義」が指令している、などというのは、デマでしょうが、しかし、統一的な指令がなくても、世界大戦と考えざるをえないこともあるでしょう。第一、第2次大戦のとき、日本・ドイツ・イタリアは「同盟」していたけれども、統一的な作戦を展開していたのではなく、勝手にやっていたのです。
 まあ、こんな感想は「妄想」であればいいですが。
 そうそう、イスラムで思い出しましたが、多少日本の教育に関係あると思うので、付け加えておきますと、数年前、オランダの刑務所で、食事が問題になったそうです。それまで、ある時期から、オランダ刑務所では、イスラム教徒用に特別の食事を用意していたそうですが、囚人の食事を、特別計らいをするのは可笑しいということで、同じものにしたのです。すると、イスラム教徒が大反対をして、結局やはり別の食事ということにしたのだそうです。
 オランダの学校にもイスラム教徒は、たくさんいますが、しかし、こういう問題はありません。なぜかといえばこちらは「給食」はないからです。
 しかし、日本にいたとき、ある先生がイスラム教徒の生徒のために、給食でとても苦労したという話を聞いたので、思い出したのです。日本の学校は「刑務所」みたいなところがあるし。
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 オランダの「教育の自由」が、宗教学校からの要求であったことは、既に書いた通りである。1917年の憲法で、公立学校と私立学校の財政的平等が規定されたことによって、授業料などを全く考慮することなく、公立学校と私立学校のなかから、最も適当であると考える学校を選択できるようになった。義務教育段階では、公立も私立も完全に教育費は無償である。
 しかし、当然だが、自分の子どもを行かせたいと思う学校が近くに存在しない場合もある。法律によって、4キロ以内に複数の学校が存在しなければならないと、当時は規定されていた。ただし、それは最低基準で、目標としては、2キロ以内に複数の学校ということになっていた。複数といっても、伝統的には、公立学校(宗教教育を義務としない)、プロテストタント学校、カトリック学校の3つが近接していることが多い。隣り合っている場合も少なくない。しかし、人口が少ない地域では、事情が異なることが少なくないのである。
 オランダ社会は、「柱社会」と言われる時代が1970年くらいまで存在していたとされている。生まれたときから、死ぬまで、基本的に宗派的共同体(病院、学校、地域のクラブ、労働組合、メディア)のなかで生活する。それが柱社会である。しかし、それは同一地域にそうした柱が複数存在しているのではなく、この地域はカトリック、ここはプロテスタントというように、多くの場合、宗教と地域が重なっていたのである。だから、学校の種類も少なくて済んだわけである。
 しかし、戦後の高度成長のなかで、人口移動が激しくなると、様々な宗派のひとが混住するようになり、また、社会主義者、自由主義者、他宗教の人なども生活している。そうすると、どうしても、2、3種類の学校では、行かせたい学校がない親がでてくる。とくに、伝統的なプロテスタントとカトリック以外の宗教、あるいは無宗教のひとたちにとって、問題が生じることが多くなった。そういう地域では、宗教的でない公立学校を自治体が設置することになるが、財政的に、設立できない場合がでてきた事例が、上の地域なのである。
 公立学校があれば、問題は多少軽減されるが、双方に不満が生じる場合もある。
 フレネ学校を訪問したときのことだ。フレネ教育とは、フランスで、第一次大戦後にフレネという小学校教師によって始められた教育方法で、作文を重視し、それを印刷するのが主体たが、調査学習の結果を教科書にしたり、教材を他のフレネ学校と交流したりする。オランダでも普及しているのだが、実は公立のフレネ学校と私立のフレネ学校がある。私が訪問したのは、公立だった。校長としては、フレネ教育を重点に行いたいのだが、公立学校であるために、宗教学校を嫌がって選択する親もいる。だから、必ずしもフレネ教育に共感して、入学する子どもや保護者たちばかりではないので、フレネ教育の理解は十分ではないと語っていた。こうした齟齬は、完全に失くすことはできないだろうが、だからといって、では学校指定制度を望んでいるといえば、オランダ国民のなかには、選択できる状況の支持は、確立しているといえるだろう。
 
 さて、オランダの学校選択の自由は、中等学校の分岐制度とも密接な関連がある。多くの先進国は、中等学校を単一の資格を生じさせる学校体系に、つまり複線型から単線型に改編してきた。しかし、ドイツとオランダは、いまでも複線型を残している。最も、初等学校は単一になっているので、中等段階から分かれるということだ。オランダでは、6年制、5年制、4年制の3種類の学校種に分かれている。そして、それを能力、素質、成績などで判断して、別々の進路を選択していくことになっている。それは「不平等だ」という批判が、ほとんどの先進国では起こった結果やめた制度であり、実際に、オランダでも疑問をもつ人はいる。疑問は、主に、分化が早すぎる、不平等だという意見になるが、では、分岐を支持するのは、どういう意見なのか。
 日本のニフティの会議室で、能力は生まれつきなのかをめぐって議論が起き、それにオランダ的状況を考慮して参加したのが次の文章である。もっとも、この時期には、私自身のオランダ教育、あるいはオランダ人の教育に対する感覚への理解が、まだまだ不十分だったこともあり、現在では、多少修正した見解をもっている。まず文章をそのまま掲載しておく。
 
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44 能力の問題
                                            93.6.17
 
427の上善如水さんから始まったいくつかのア-ティクルで、能力は決まっているという論が展開されていて、それがオランダの教育観と同じであり、その点でのオランダ教育への共感が示されていたように思います。
 しかし、私はこの点については、オランダ教育には共感していないのです。この点で、オランダ教育はいずれ改革せざるをえなくなるだろうと思うくらいです。
 人間の能力にかなり大きな差があることは、だれも否定できないところです。人間の能力に差がある、ということを指摘することは、それ自体としては、ほとんど意味をなさないと思うわけです。
 古代アテネでは、それこそ能力の平等観からか、公的仕事を籤で決めていたそうです。しかし、現代で、そのようなことを主張する人はいないわけですから、人間すべて能力は平等などと考えている人は、実際のところいないでしょう。だから、「人間の能力は決まっているんだ」という論理は、あまり教育なんて受けたってしょうがない連中がいる、そして、そういう連中には、社会はお金をかけて教育を与える必要などない、はやく自分に相応しい仕事をしなさい、という主張に、通常はなるわけです。
 たぶんオランダという社会は、現在のところ、そのような主張が、社会の主流になっていると考えられるのです。実際に、そういう主張を、よく聞くことがあります。
 しかし、別の観点から、オランダ社会を見ると、そうした、教育を十分には受けてこなかった人々が、現代社会にふさわしくない働きブリで、我々を驚かせることがよくあるのです。
 ライデンのマクドナルドは、学生がよるアルバイトをしているのですが、注文やおつりを間違えることがよくあります。学生ですらそうなのです。
 他の店では、推して知るべしです。ヨ-ロッパでは、技術革新についていけなくて、企業が競争に破れることが、よくあるわけですが、その基本的原因は、やはり教育の問題でしょう。つまり、社会の基礎的部分で技術を支えている人達の教育水準は、ヨ-ロッパは意外と低いのです。なんと言っても、日本は後期中等教育の率が90%を越えているわけで、しかもその教育水準自体が、はるかに高いものがあります。いろいろ問題はあるにせよ、この点の優位性は否定しがたいものがあります。こちらで、失業問題のひどさを聞くと、余計そのように感じるわけです。
 オランダ人は、よく言います。人間の能力は先天的なものがあるので、無理に高い教育を受けさせなくてもよいのだ、と。
 しかし、その能力をどのようにして計っているのか、あるいは、どのようにして計れば、本当にその人の能力を計ることができるのか。
 この点について、オランダ人が、きちんとした対応をとっているとは思えないのです。つまり、小学校では、ほんとうに良く遊びます。無理な勉強を押しつけるようなことはないわけです。結構習い事などもしますが、日本のように、一生懸命というような雰囲気は、多くの場合ありません。結構いいかげんなのです。
 それで、本当にこの子どもの能力は、こうだ、などと判定できるものでしょうか。
 私が日本の大学の講義で、かならず一度は一年間に問題にするテ-マがあります。それは、「実力というのは、全然準備しないで、いきなり何かやらせた時に発揮する能力のことなのか、それとも、ぎりぎり準備、練習してから発揮できる能力なのか、人間の実際の能力を計るとき、どちらがより正しく能力を計っているのか」という問題です。私は、大人数の講義でも、討論形式の方法を取っているのですが、この問題では、大抵活発な討論がされます。
 オランダ社会では、少なくとも、多数の意見、そして、実際の親の行動は、「準備しないで」という方法・認識をとっているように思われるのです。しかし、どうも私は、そういう考えに賛成できないわけです。
 だいたい音楽に接したことのない人に、音楽の才能がない、と断定できるだろうか、ということです。
 CONTIさんが確か紹介していたように、ヨ-ロッパの学校というのは、基本的には「知的学習」の組織なのです。したがって、音楽や図工や体育は、授業としてありますが、非常にお粗末です。ただやっている、という程度で、日本のように体育祭で競争したり、音楽祭の合唱コンク-ルに向けて練習する、などということがないのです。知的学習だって、日本のような学習指導要領はありませんから、教師によって教える内容には、相当な差があると考えてよいでしょう。
 そういう中で、判定される能力に、どれだけ正確なものがあるでしょうか。
 やはり、人間の能力は、ある分野をかなりやってみて、分かることなのではないか、と思うのです。
 じゃなんでもかんでもやってみなければ、ならないのか、ということになりますが、もちろんそんなことはできないので、それは、実践的な問題として、解決される以外にはないのでしょうが。
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 人の能力は、かなり生得的に決まっているから、無理に背伸びをしても成功はしずらい、という感覚が、日本人よりは、オランダ人は強いと思われる。それは、当時も、また今でもそう思っている。しかし、オランダ人が、固定的にそのように考えているわけではない。
 例えば、絶対音感を考えてみよう。プロの音楽家、特に作曲家や指揮者になるめたには、絶対音感は不可欠であるといってよい。だから、ヨーロッパのひとたちは、自分の子どもがプロの音楽家になるべく勉強するのがいいのか、あるいはアマチュアとして楽しみでやれればよいと考えるかの判断基準として、絶対音感の有無を確認することが多い。そして、絶対音感があれば、プロを目指させるが、なければ、そこまでの教育をしない。別の適性を探すことになる。ところが、日本人の親は、絶対音感が必要ならば、なんとかトレーニングによってつけさせることを目指す人が少なくない。だから、絶対音感トレーニング法などがある。
 私は、この点に関する限り、ヨーロッパの感覚のほうに共感している。スポーツや芸術家など、本当の才能と努力がないと成功しないプロについては、基礎となる資質の判定は重要であり、それがないのに努力をさせるのは、その子どもを無理な状況に追い込むことになると思うからである。
 オランダ人は、そうした割り切り方が比較的強いように感じた。だから、小学生のときには、遊びを重視して、そのなかで知的な領域に強い関心を示し、勉強を厭わない子どもであると判断できれば、6年制の大学接続の中等学校(VWO)に進学させるし、むしろ職人として働くほうがよい、と判断すれば、4年制の学校にいれて、早くから職業教育を受けさせる。そのように割り切っていると感じた。ただし、オランダの分岐型中等教育は、移行可能になっていて、最初は勉強に興味がなかったが、進学後興味をもち始めて、勉強するようになったら、学校を変えることができる。そのことが、不平等感を低減させている。このことに気づいて、私の中等学校制度に関する意見も、多少変化することになったが、それはまた別の機会に論じたい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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