判決と政治過程について、どう考えるか。
まず判決内容については、やはり、支持することはできないだろう。長期的にみて、国家免除が制限されていくとしても、現在は、国際慣習法として存在していると、国際司法裁判所は認めており、日本政府に対して、政府が関与したとして、賠償を求めているのだから、政府としての主権行為に対する請求ということになる。それは、人道に反する行為である故に、主権行為であるとしても国家免除から除外されるという判決の論理は、論理的に矛盾している。
ただし、日本政府としては、現時点での慣習法としての国家免除に甘んじることなく、やはり、国家が個人の権利を侵害したときには、免除が制限されるという方向性を志向する必要があるのではないだろうか。
そして、この訴訟そのものについて、やはり、疑義を抱かざるをえない。訴訟そのものが提起されたのは、日韓合意の以前であるとしても、日韓合意が成立した時点で、取り下げてしかるべきであろう。というのは、実質的に、日韓合意は、この訴訟が求めている以上の条件を提供していた。日韓合意は、元慰安婦に1000万円の補償をすることになっているが、この訴訟で要求しているのは、それ950万円である。しかも、ここで原告になっている元慰安婦のなかで、実際に日韓合意の補償を受けている人が少なくないはずである。二重取りという、いかにも不誠実なやりかたであるといわざるをえない。
慰安婦や正義連は、正式な誠意のある、不可逆的な謝罪が必要だと主張している。しかし、国家の謝罪とは、極端な言い方になるが、「形式」に過ぎない。日韓合意では、安倍首相(当時)の謝罪文が手渡されている。謝罪文が、国家の謝罪を表現しているのであって、深刻な表情をしたとか、そういう主観的なことは、各人の受け取りであって、実質をかえるものではない。首相が国家を代表して、謝罪を意志を表明したことが重要なのである。それ以上の「真実の謝罪」を求めるというのは、やはり、為にするものといえるだろう。正義連が、実は慰安婦に必要な援助をしておらず、私腹を肥やしていたことでわかるように、正義の主張ではなく、政治的攻撃が目的ということは否定できないだろう。
しかし、日本政府、政治家の対応にも問題はあった。河野談話は、きちんと調査の上だされたものだといえるし、当時正式に表明されたものである。その後の調査で若干の変更の必要があったとしても、大筋に変化があったとは思われない。安倍首相は、個人的なレベルであるとしても、河野談話の見直しを発言したり、それに類する有力政治家の発言は少なくない。こうした対応は、やはり、日本国民としても、問題を感じる。
そして、過去は公娼だったなどというところではなく、戦争が慰安婦という存在を有無という事実から、慰安婦問題をより広範な形で、問題にしていくという姿勢をもたねばならない。過去の日本の慰安婦政策を弁護するために、慰安婦が生まれる状況を否定しないような議論に陥ってはならない。そうした基本を堅持すれば、逆に、韓国の行ってきた慰安婦政策をも批判する視野が開ける。韓国がベトナム戦争や朝鮮戦争で行った慰安婦政策に、目をつぶる必要はないのである。もちろん、戦後アメリカ占領軍に対して行った、日本の慰安婦政策も同様である。基本的人権の立場に立ちきることが重要だろう。