慰安婦訴訟は、もちろん単なる法律論ではなく、その政治過程こそが重要である。
最近は、あまり触れられることがないが、慰安婦問題が国際社会で大きな問題となったのは、1990年代になってからであって、1970年代までは、実は日本の保守的なひと達は、慰安婦の存在を別に隠していなかったのである。むしろ、自慢げに話すような対談が残っている。慰安婦を問題として扱う人がいなかったわけではなく、少数ながら、告発的な本は存在していた。(千田夏光『従軍慰安婦』1973年)1980年代になると、その後大きなスキャンダルともなる吉田清治の著作や告白(実際には虚偽であることがわかった。)がなされるようになり、社会的に慰安婦が大きく扱われるようになった。
つまり、ここで大きな流れの変化があったといえる。
それまでは、日本人の発言の多くは、慰安婦は当時の公娼制度が海外でも行われたことであって、特に問題はないという前提でなされていた。韓国では、慰安婦であったひとたちは、その前歴をひたすら隠す必要を感じていて、声をあげることがなかった。
70年代に表れた日韓の慰安婦問題を扱った書物で、問題提起されていた状況に、吉田発言が表れて、一挙に、日本の強制連行説か表にでることになった。しかし、秦郁彦が指摘するように、敗戦の際に、軍部はさまざまな書類を廃棄してしまったので、かなりの部分が調査困難になってしまった。(しかし、不可能になったわけではなく、残った記録もあった。)
私は、何故韓国の側で、この問題を扱うようになったのか、そのきっかけは、正確に理解できないでいるが、とにかく、韓国の女性団体が、慰安婦問題を糾弾する運動を組織しはじめ、そして、90年代になると、かつて慰安婦だったという女性か何人も名乗りをあげるようになった。そして、国連でも扱われるようになり、日本政府はその対応を迫られることになったわけである。そして、日本政府を、日本で提訴する動きがいくつも起こった。日本の裁判所が、その訴えを認めることは考えられないので、いずれも原告が敗訴して、それゆえに、今度は、韓国の裁判所に提訴したわけである。
それから、この点も指摘しておく必要があるのだが、慰安婦問題は、決して韓国だけが対象ではなく、アジアの国や、ヨーロッパではオランダがかかわっている。私は1992年に1年間オランダでの海外研修で滞在したが、少数とはいか、当時でも反日感情をもっているオランダ人はいた。そして、あの人には、恨みごとをいわれるから、注意しなさいというような忠告も受けた。反日感情は、インドネシアにおける捕虜の虐待と、慰安婦であった。日本人で、慰安婦は公娼だったから、本人の意志でなったのであり、強制はなかったという人は、オランダ人の例をどう説明するのだろうか。インドネシアにおけるオランダ人は、支配者であり、いかに、日本軍によって占領されたとしても、慰安婦になるような立場ではなかった。しかも、白人は当然アジア人を一段低いものと見ていたから、自発的に慰安婦になる可能性はほとんどなかったのである。オランダ人には強制したかも知れないが、韓国人にはしていないというのは、あまりに説得力のない議論である。むしろ、植民地人であった韓国人に対して、より強圧的に振る舞ったろう。
1993年の宮沢首相の訪韓が大きな転換点になった。韓国で、宮沢首相は、軍の関与を認め、謝罪した。そして、調査することを約束し、調査が行われた。その結果だされたのが、保守的なひとたちが嫌悪する河野談話である。河野談話は政府の関与を認めていた。
それを引き継ぐ形になるが、村山首相の下で、アジア女性基金が設立され、橋本内閣が、フィリピン、韓国、台湾の元慰安婦に、「償い金」を支払い、首相のお詫びの手紙を渡した。
その後いくつかの展開があった。
ひとつは、日弁連などの活動で、慰安婦を「性奴隷」と規定し、国連のなかで、性奴隷の言葉が定着していった。そして、教科書に慰安婦を記述するものが増えた。韓国では、日本に対する謝罪と賠償を求める運動が強化されていった。他方、そうした動向に対して、日本のなかから、自虐史観であるとして批判するひとたちが現れ、強制連行はなかったというキャンペーンを行っていく。そうしたキャンペーンに呼応する形で、政治家のなかに、慰安婦を否定したり、公娼だったことを強調するひとたちが現れ、次第に日韓の対立が激しくなっていく。
そうした日韓の対立を問題視したアメリカのオバマ大統領が、仲立ちとなって、日韓両政府に解決を求めて、協議が開始されたのが、2014年である。2014年4月に協議開始し、韓国は「不可逆的な謝罪」を求めた。それに対して、日本は、「最終的な解決」を求めていたが、韓国の要求を逆手にとって、「最終的かつ不可逆的な解決」という文言をいれさせた。常識的に考えて、「不可逆的な謝罪」というのは、理解に苦しむ。どういうことか、ほとんどわからない。韓国も、日本も、「不可逆」という言葉が好きなようだ。しかし、政治は、化学反応ではないから、不可逆などということはありえないのである。
この協議は、2015年12月28日、日韓合意として結実し、両国の外相の間で確認がなされ、慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認し、韓国政府か慰安婦支援のために説たつする財団に、日本政府が10億円拠出し、今後双方が非難しあうことがないという点を確認した。そして、基金として、各慰安婦に1000万円、遺族に200万円支払うことになり、2016年8月に履行された。生存している慰安婦46名中36名が受け取ったが、残りは拒否した。韓国の挺身隊問題対策協議会が、この合意に反対し、受け取らないように働きかけたからである。
そして、日本側は、韓国が慰安婦像を移動しなかったこと、韓国は安倍首相の謝罪が不十分(外相による代読)不誠実であるということで不満をもった。両国に合意に対する意見の分裂が生じたが、特に日本において分裂は大きかったといえる。しかも、韓国で文政権が成立すると、合意を破棄してしまった。そして、2018年2月に財団そのものを解散したのである。
ただ、韓国の状況もそのままでは進まなかった。挺身隊問題対策協議会の幹部が、慰安婦に渡すべき公金を不正に取得していると、慰安婦自身が訴えたのである。(この件については、韓国でも明確な結末には至っていないようだ。)
以上のような状況において、判決がだされたのである。(つづく)