同調圧力を再生させる仕組み2

(前回は、佐藤直樹氏のインタビューで、日本における同調圧力の問題が指摘されており、その指摘は同意できるが、どのような仕組みで同調圧力が再生されているのかが明らかでないとして。)
 常識的に考えて、学校教育とマスコミが、最も大きな力をもって同調圧力を再生しているといえるだろう。
 まずマスコミである。もちろん、日本のマスコミを念頭においている。
 日本の加害者の家族へのバッシングについては、私も前から研究し、学生が卒論で扱うこともあった。私自身の身近に、そうした人がいたこともあったからだが。では、加害者の家族へのバッシングをするのは、だれか。

 それは、第一にマスコミである。最近は、インターネットが発達したので、むしろネット上のバッシングが目立つが、テレビ報道もまだまだ、バッシング報道をしている。一見そうではないようにみえても、実質は、バッシングになっていることが多いし、かつてはかなり酷かった。女子高校生を40日間監禁したうえで、死なせた少年グループの犯罪があった。大部前の事件だが、テレビを初めとするメディアの報道は、半年近くも続いたのではないだろうか。そして、犯人の少年たちの家族は、マスコミの記者たちの追求にあって逃げ回るのだが、記者はそれを追いかける。中でも主犯格の少年の母親は、しつこくカメラに追い回され、追い回される姿が放映された。 
 これほど極端ではなくても、似たような加害者の家族への取材は、繰り返されている。これは、マスコミが、一種の正義感にたっていることを示している。被害者はほぼ自動的に、正義の側にたつが、それは100%妥当だとはいえない。日本のマスコミが、「正義感」をよりどころにしているために、多様な立場や見解のすり合わせが、ほとんどないのである。しかし、正義とは、おそらく単一のものではないことも少なくない。もちろん、ある立場を前面に押し出す必要がある場合もある。例えば、明確な性差別や人種差別的な行動を擁護する意見を、批判意見と同等に扱うことは問題だろう。しかし、多くの「正義」は、また違った正義の立場も可能である。安楽死や中絶などは典型的な例だろう。
 しかし、こうした点でも、日本のマスコミの討論では、双方の立場の人が出てきて、活発に議論するなどということは、滅多にない。私は、退職したので、これまでよりワイドショーをたくさん見ているのだが、出席者が活発に異論をぶつけ合う番組は、羽鳥モーニングショーくらいである。あとは、ほとんどが、一定の方向性に、出演者がみな頷くのみだ。これこそが、同調性の浸透に大きく影響しているように思う。BSの番組は、議論を闘わせる番組がみられるのだが。
 第二は教育である。これまで何度か紹介していきたが、「ウェイブ」というドイツ映画がある。ナチス体制を教える上で、リアリティをもたせるために、ナチス式の行動を授業のなかに取り入れたことろ、それが行き過ぎて、生徒たちがすっかりナチス流に染まってしまい、悲劇的な結末を迎えるのだが、その最初の部分が非常に、日本の教育にとって示唆的なのである。ちなみに、これは1950年代にアメリカの高校で実際に起きた事件である。もちろん、映画なので、多少脚色があるが、大方は事実である。
 ドイツの高校なので、日本とは異なり、かなり雰囲気が、よくいって自由、悪くいえば、締まりがない。生徒の机の並びも、日本ではグループ討議をするような形で、複数の机をあわせて、その周りに生徒たちが座っている。好きな者同士が座っていて、教師とのやり取りも、勝手気ままな感じだ。
 そこに教師がやってきて、授業のテーマが「独裁」なので、どういう意味かと生徒たちに問いかける。いろいろな意見がでるのだが、2時間目に、教師が、実感できるように、ナチス風の要素を取り入れようと提案する。そして、次々にそれまでなかったようなルールを、教師が指示していく。
 まず最初は、意見を言うときに、立つことだ。それまでは座ったまま勝手に話し始めるのだが、指名されたら起立して話すというルールが第一号である。次に姿勢だ。だらけた姿勢をとっていた生徒に、まっすぐ、体を伸ばせという。もちろん、他の生徒たちもだ。
 それから、それまでは、気楽に教師の名前を呼んでいたのを、様をつけて名字を呼ばせる。「ベンガー様」だ。
 座席も教師が決めてしまう。そして、それに反感をもった生徒もいた。好きな者同士をやめて、成績のいい生徒と悪い生徒を組み合わせたので、助け合えと、教師は説明する。それに抗議をするのだが、教師は一蹴してしまう。もっとも、人間の能力は多様で、ひとつがいいから、みんないいわけではない、だから、助け合いが必要だという理屈を述べて、生徒たちを納得させてはいる。
 そういうなかで、クラスの力を高めるために、何が必要かを考えさせていく。そこで「規律の力」という意見が出てくるので、では、行動でやってみようということになり、みんなが起立して、足踏みをする。揃うまでやる、大きな音をたてろ、というので、だんだんみんなの足踏みが揃って、下の教室に響いてしまう。下の教室の教師が校長に抗議をするのだが、逆に、下のクラスの生徒が、「独裁」のクラスに変わりたいと申し出ることで、抗議どころではなくなってしまうのだ。
 次が「制服」。上は白で、下はジーンズ。教師は、これならみんなもっているだろう、ということで提案するが、実はもっていない生徒もいて、店で何人かが買っている。しかも、かなり高額だ。
 このように、行動や外見の統一化が進んでいき、教師を英雄視する生徒が出てくることになる。 
 このウェイブという映画をみれば、日本の教育の同調圧力の要素が、よく理解できる。ここにあげられたことは、日本の学校では、ほぼ常識に属することだ。もちろん、それぞれの要素は議論の余地があるとしても、当たり前のことなのかを問うきっかけになるだろう。
 では、何故同調圧力は問題なのか。みんなが同じであれば、安心であり、協力関係もうまくいくと、多くの人が考えているから、同調性が続いてきたのではないか。
 全体主義の最も本質的な属性が「均整化」であるというのは、広く承認されている命題だろう。つまり、同調性の極限状態ともいえる。
 我々日本人にとっては、ごく自然であると見えることも、こうした映画を通してみると、「均整化」の要素であることが、よくわかるのである。
 人口のほとんどが農民であるような社会であれば、そうした同調性、同質性は好ましいものであったろうが、現代社会は、そもそもが多様な職業、多様な趣味、多様な生活形態によって構成されている。従って、個々人の多様性を相互に認め合うことなしに、個々人の幸福は実現しない社会になっている。だから、マスコミも教育現場も、多様性こそ重視するように、その在り方を変えていく必要がある。
 個人としては、KYを恐れないことであろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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