日本学術会議の会員選考について、政府に批判的な学者を排除するという動きは、既に2018年にはあったと報道されている。だから、見解突発的に行ったものではなく、おそらく、菅政権が発足して、支持率が高いこともあって、思いきってやってしまおうと考えたのではないだろうか。
しかし、いかにも、そのやり方はお粗末で、安倍政権そして菅政権の水準の低さに呆れてしまう。法手続的にいえば、どう考えても筋が通らない。「推薦に基づいて任命する」というのは、推薦をそのまま認めることであるのは、内閣総理大臣を天皇が、国会の指名そのままに任命することと同じである。これを曲げて、首相に推薦の拒否権があるというならば、天皇が国会の指名を拒否できるという解釈も成立する。そんなことは、まさか認めないだろう。学術会議の会員も同様ではないか。
それでも、「推薦に基づいて」が、強い拘束力はあるが、あくまでも推薦であって、指名ではないという理屈もありうるかも知れない。しかし、その場合には、何故推薦から外したのか、明確に説明する責任があるというのは、民主主義国家の原則である。この原則を無視して、排除した理由を説明しないということは、民主主義に基づかない政治をやるという宣言に等しい。
このような内閣は、今後もいろいろと強権的なことをしていくに違いない。
ところで、今回の推薦名簿から特定のひとたちを排除したことは、「学問の自由」に違反する行為であると批判されている。では、何故「学問の自由」が大事なのか。そのことをきちんと確認しておくことも重要だろう。税金を使っての組織なのに、学者先生たちのわがままを、そのまま認めるのはおかしいのではないか。公的資金を使うのだから、政府に反する人を排除するのは、当たり前ではないか、というような考えをもつ人もいるようだからである。
「学問の自由」は学者を守るためではない。本当に優れた学者ならば、信念に生きているので、権力に屈することはないだろう。今回排除されたひとたちが、学問研究ができなくなるわけでもないし、逆に、激しい反骨精神を発揮して、ますます政府に批判的な学問的成果をあげていくに違いない。少なくとも、学術会議の会員になることを排除されたからといって、そのひとたちが大きな被害を被るとは、私には思えない。むしろ、もっと重大な社会の被害が生じる恐れがあるのだ。
「学問の自由」は国、社会を守るために必要なのである。学問の自由を圧迫し、権力に批判的な学問を消そうとした国は、歴史的にいくらでもある。ほとんどの独裁国家はそうだったし、一見民主主義的な国家でも、そうした行為がなされることがある。そして、学問を弾圧した政治を行った国家は、長い目でみれば、すべて滅んでいる。20世紀だけをみても、ナチスの第三帝国、大日本帝国、ソビエト連邦がある。
ナチスは、社会主義思想を徹底的に弾圧し、焚書を盛んに行ったし、ユダヤ人の大学教授たちをほとんど全員追放した。日本も同様である。天皇制について、科学的な歴史学の成果を発表した学者は、ほとんど弾圧されている。帝国主義的植民地政策を徹底的に批判した矢内原忠雄は、「こんな国家は一度滅んでください」と書いて、東大教授を追われたたが、事実、大日本帝国は滅んでしまった。ソ連も、多くの学者が追放され、逆にルイセンコ学説などの非科学的学説がまかり通り、批判的な学者が多数弾圧された。
科学技術は、国家の力の基礎であり、それを実現するのが「学問」である。そして、学問が力を発揮するのは、自由が保障されているときなのだ。科学的精神のみに依拠して、科学的な方法に基づいた研究のみが、成果を実現できるのである。権力の介入が、研究の内容や方法にまで及べば、科学的水準は確実に低下していく。
菅政権は、学術会議を権力によって骨抜きにし、都合のよい団体に変えることができるかも知れない。しかし、それは菅政権が作り上げようとする国家、つまり日本そのものを弱体化させるだけのことだ。
権力におもねった学術研究もある。福島原発事故までの原子力研究者はその典型だった。事故のときも含めて、その以前に彼等が振りまいていた言説が、いかに日本を誤らせたか、決して忘れてはいけない。原発事故が起きたとき、テレビにでてしたり顔で解説していた内容も、その後でたらめのオンパレードだったことが明らかになった。学術に権力が介入すると、そういうことが起きるのだ。原発事故によって、どれだけ日本全体、そして世界が被害を受けたか計り知れない。