教育学について考える1

 しかし、そうした意見集約の機会をまったく設けることなく、ごく少数の委員の、何度かのオンライン会議で、学会意思なるものを決めて公表した。短期間にかなり大量の文書を作成したことは、努力されたことはわかる。大学の機能がかなりの程度麻痺している状況だから可能だったともいえるだろう。それぞれ分担して、声明の文章を書き、オンラインで配布して、オンライン会議で了承ということだったと思われる。しかし、学会というのは、多様な見解をもつ研究者の集団である。にもかかわらず、これだけ短期間に、9月入学反対の見解をまとめたというのは、それに近い見解をもった人たちだけを集めたか、あるいは、会長以下幹部の見解に従って強くリードしたかのどちらかだろう。世論が60%支持だったのに、学会では、ほとんど賛成者がいないなどということがあるだろうか。
 このような経過をみれば、9月入学を拙速で議論するな、結論を出すな、という学会の基本姿勢こそ、自らに当てはまることなのではないのだろうか。拙速な議論をしたのは、日本教育学会の委員会であるように思えてならない。
 今更、そのようなことをいっても仕方ないから、問題を広げて、教育学のあり方について、いろいろと考えていきたい。題名はそういうことだ。

 教育学というのは、なかなか難しい内部矛盾をもった学問領域である。まずその矛盾点をふたつあげておこう。
変革と保守という矛盾
 第一には、変革と保守という相反する性格を、学問的な要素としてもっていることである。教育という行為は、指導者(教師)が、被指導者(生徒)に対して、まだできないこと、わからないことを、できるようにする、わかるようにするために働きかけることを意味する。だから、教育は変革のための行為であり、教育学は、いかにして変えるかを究明する。教育学といっても、教師と生徒だけを対象とするわけではなく、教育計画のような社会で行われる広い意味での教育や教育制度も扱う。その場合も、従って、変革が常に意識される。市民革命の思想家が、多く教育論も展開していたことは、その象徴である。ロックやルソーは偉大な教育思想家でもあった。日本教育学会の声明は、そういう意味で、この教育学の側面を無視した姿勢が表れている。
 他方、教える内容は、常に既に蓄積された文化財である。今の社会が価値として認めている内容を、次世代の人たちに伝えていくことが、教育で行っていることだ。社会が価値として認めないことは、少なくとも公教育のなかでは「教育の対象」ではない。「殺人の仕方」「巧みな万引きの方法」「みつからないいじめのやり方」などは、学校で教師が教えたら、直ちに懲戒処分になるだろう。
 すると、次の矛盾を生む。現代社会は、先進技術を生むことが必要で、創造力の育成が教育に求められている。しかし、創造とは、今は存在しないものを生みだすことだから、創造力など教育できるのかという、極めて根本的な困難に直面する。そして、実際に創造性などを発揮できる人材は、ごくわずかしかいない。にもかかわらず、創造性が重要視される領域では、早期教育が不可欠と考えられていることが多いのである。すると、その方法が発見されたとしても、国民全体を対象とする公教育で、創造性教育を実施するのか適当かという問題すら生じる。
 創造性を重視するためには、既存の教材からかなり自由になる必要がある。既存の文化価値を教え込むということは、そこに思考枠組みを固定していくことでもあるから、創造性を阻害してしまう危険が高い。シュンペーターが、「まったく新しいものを生みだした天才のほとんどは、その社会の教養を欠いていた人が多い」とどこかで書いていた。もちろん例外もあるが、科学技術の分化が複雑多岐に渡っている現代では、ますます既存の文化の押しつけが、創造性を阻害するといえるだろう。
 そうすると、創造性を重視した教育スタイルは、「自由な学習」となる。その究極の姿が「サドベリバレイ校」である。1960年代の末にアメリカのボストン近郊に設立された学校だが、今では国際的に拡大し、日本にも10校弱ある。そこでは、「教える」という行為を、学校側からは全く設定せず、何をするにも自分で決める。ずっと遊んでいてもいいし、一人で読書してもいい。誰かに教えてほしいと思えば、教えてくれる人と「契約」して、その契約にそって教授が実行される。卒業生には、何か決まった作業をする仕事よりは、自分で考え、対処していくような仕事に就く人が多いようだ。
 私自身、そのような学校があれば、そこで学びたかったと思うが、しかし、通常の学校をそのような教育スタイルにすることは、まず賛同する人はいないに違いない。あくまでも、特別な学校として認められるべきだと考えるだろう。

教育学は科学なのかという問題に内包される矛盾
 第二に、科学としての問題である。「科学とは何か」という根本問題を避けることはできないが、とりあえず、「科学的」であるためには、エビデンスが求められる。厳密にいえば、実践的領域では、厳格なエビデンスの析出は不可能である。例えば、医療行為は、科学としての医学のみを実践しているわけではない。患者の症状をみて、医者は、病名を想定するが、絶対に正しいかどうかはわからない。しかし、それまでのデータや経験で病名を想定し、治療法や投薬を決める。しかし、それで確実に治るわけでもなく、症状が改善されなければ、違う薬や治療法を試みる。つまり、これまで科学的にわかっていることを踏まえても、治療行為は、試行錯誤という要素を絶対的に排除することはできないのだ。コロナ禍におけるアビガンの扱いに関して、明確な意見の違いが表れたのは、このことに関わっている。実際に、患者や投与した医師が、効果があったと報告すれば、患者やその家族は、ぜひ使ってくださいと要求する。医師としては、可能性があるなら使ってやりたいと思う。こういう流れが、アビガンの治験としての使用拡大と早期認可を求める。しかし、医学や薬学の研究者たちは、厳密な治験の結果はでていない以上、つまり、科学的なエビデンスがでていない以上、拙速の認可はすべきでないと、早期認可に反対する。
 つまり、実践を対象とする学問分野は、厳密な科学的条件とは、異なる部分をもたざるをえないのである。教育学もそのひとつである。その理由はふたつある。ひとつは、物質が対象ではなく、人間が対象であること。物質が対象であれば、物質に対する行為の結果は、一定であることが期待できるが、人間が対象であれば、同じ人が同じ働きかけをしても、相手が違えば、結果はかなり違うのは当たり前だ。褒めて伸びる人もいるし、叱責されなければ奮起しない者もいる。更に、同じ教師が同じ生徒に、同じことを教えても、日が違えば、結果が違うことですらありうる。双方の気分や体調が影響する。もうひとつの理由は、もし教育的な、好ましい結果がもたらされるという方法があったら、それを統制群を設定して、科学的なデータをとる実験をするよりは、その方法を実践して効果を確かめるというのが、ほとんどの教育者がとる態度である。もともと人によって効果は異なるのだから、ある意味、何らかの効果があれば、それは効果的な方法であると考えるし、また、逆に、それが常に効果的であると考えるわけでもない。教え方は多様にあるという前提で考えれば、わざわざ科学的実験法による相関をとる必要もないし、また、その結果に客観的根拠があるともいえない。
 教育学の理論は、科学的に検証されたものではなく、様々に検証されることはあっても、ひとつの選択肢として蓄積されていくものと考えている。

 さて、9月入学に対する日本教育学会の声明に関連して、以上のことはどう関わるのか。無理に結びつける必要はないだろうが、一点書いておきたい。教育学理論は革新を求める性質をもっているという側面が、忘れられていないかという点だ。最終的に変えるかどうかは多様な選択があるとしても、4月入学というスタイルが、様々な問題を孕んでいることは、少なくとも「教育学者」であれば、感じていなければおかしい。それに対応する有力な選択肢として9月入学があることは、多くの人が認めるところだ。だから、「まだ充分に議論されていない」というのが、教育学者の間から出されていいものだろうか。ましてや、4月入学は日本の文化に根付いているというのでは、現実に起きている制度的な問題には、目が向かないし、何も変えることなどできないという結論にしかとならない。そう危惧するのは、私の邪推だろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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