ある国が、他の国とかなり違う政策を導入して、他国から批判されても退かないことは、たまにある。オランダの麻薬政策、安楽死政策などが代表だが、そうした政策は、少しずつであるが、他の国にも広がっている。そこには、多くの国では実施していないことの理由も、大きく存在しているし、また、新しく始める理由もある。
今の新型コロナウィルス対策でいえば、スウェーデンのやり方がその例だろう。まだ充分に理解しているわけではないが、スウェーデンの試みは、単純に危ない冒険だというように片づける必要はないように思う。ただ、疑問もある。
簡単にいえば、欧米の国がとっているロックダウン政策をとらず、より緩やかな自粛を呼びかける方式をとっている。日本も自粛政策だが、スウェーデンよりは多方面に渡っている。例えば、学校はほぼ全面的に休校だし、客を扱う営業は、かなりの自粛が要請されている。スウェーデンは、小中学校は、授業が行われているし、客を扱う店の営業も、注意はあるとしても、原則認められているようだ。国民の注意によって、事態を乗り切ろうとしているということのようだ。
何故そうした政策がとられているかという説明で、多くみられるのは、むしろ集団免疫を獲得することを目指しているというのである。しかし、それが正しいとすると、どうしても矛盾した政策ということになってしまう。集団免疫を獲得することで、大局的に新型コロナウィルスを乗りきっていこうというからには、感染は防がず、放置したほうがよい。もっとも、重症化や死亡はさけるべきだから、その対策をとる。つまり、国民一人一人の責任で注意するというのと、集団免疫を獲得するためには、感染者を増やした方がよいということとは、両立しないのではないだろうか。多くのひとはそう考えるだろう。
重症化や死亡を防ぐという点では、スウェーデンの紹介記事によると、社会的、政策的に似た北欧諸国に比較して、人口当たりの志望数は10倍にもなって、格段に多い。この点について、スウェーデンでは、高齢者施設での集団感染による死亡が多いので、そうなっているというのだが、医療資源の効率的使用の観点から、高齢者や若年でも回復可能性の低い基礎疾患のある患者は、病床に限りがある場合、集中治療室での対応をされないのだそうだ。そういうと、極めて差別的であるようにもとられるが、経済的格差や民族的な理由での扱いの違いはほとんどなく、医療が必要な人に対しては、平等な扱いがなされており、これは、コロナに限らず、通常そのようになされているという。極端にいうと、「命の選別」が必要ならば、普段から行われているということだろう。
ただ、スウェーデンの紹介記事を読んでいて、一番印象的なことは、たくさんの人が街にでて、レストランなどで、近接して食事したり飲んでいること、そして、通りを歩いている人のなかで、マスクをしている人がまずいない点である。一時マスク不要論が欧米ではかなりあったが、最近の写真をみる限り、欧米の人たちも、ほとんどがマスクをしている。また、スウェーデン人たちは、ソーシャル・ディスクタンスを守っているようにも見えない。
つまり、ロックダウンをせずに、国民の自覚によって乗り切ろうという点では、日本と同じなのだが、国民の行動様式は、写真でみる限り、かなり違っている。日本人が、何故感染が少ないかという理由としてあげられる日本人の習慣は、スウェーデン人には、あまりみられない気がするのだ。
もうひとつ、日本でロックダウンができないのは、そうした法的規定がないからだということになっているが、スウェーデンでは、個人の権利を国家が制限することはできない、国民が承知しないとされるが、そうであるなら、ほとんど社会的、国民性的に似た北欧の他の国ではそれができたのか。民主主義的な政治、透明性、権利の尊重という点では、北欧は共通している。なぜ、スウェーデンだけが、異なった政策をとったのか。
スウェーデンでは、まだまだ収束の兆しは見えないようだが、今後政策が変わるのか、あるいは、あくまで貫徹するのか、そして、感染状況がどうなっていくのか、私自身の課題としても、注意してみておきたい。
太田先生、ご無沙汰しています。久しぶりに先生のブログを読んでいます。教育現場で働くものの1人として、先生の考えを読みながらいろいろと思うことがあります。今は制限させられている中でできることをやっています。また詳しくお話ししたいです。