新型コロナウィルスによる休校が続いているが、その対応に関して気になる理屈がある。9月入学論や遠隔授業に関して、教育格差がある、教育格差を広げるという理由で否定的になる論調である。だから、どうせよ、というところまで踏み込む文にであったことがないので、積極的に何を主張しているのかは、わからないのだが、想像するに、教育格差を広げるから、遠隔授業はやるべきではないと考えているのだろう。一応そういう前提的な認識で以下書いていく。
遠隔授業を実施するといっても、環境的に格差があるというのは、もちろん事実である。遠隔授業をする側、つまり、学校としても、学校単位、市町村単位、都道府県単位で考えても、かなりの格差があるだろう。カメラ、ネット環境、教師たちのIT水準等にまず格差がある。家庭のほうでも、家族全体がネット環境を普段から使っていてい、有線でも無線でも常時接続環境にあり、パソコンもタブレットも揃っている家庭と、それらが何もない家庭、そして、その中間の家庭など、多様であろう。だから、遠隔授業をするといっても、学校と全家庭含めて十全に実施できる例など、ほとんどないに違いない。また、やれば、効果的に受容できる人と、できない人の格差がでることも確実である。
しかし、だからやらないということになれば、格差は広がらないのか。実は、遠隔授業をやらなくても、どんどん格差は広がる。現在のように休校が続けば、恵まれた家庭では親が子どもに充分な学習環境を提供して、必要なときには学習の援助をするだろう。そうした条件が欠けていれば、子どもは放置される。結果として格差は広がるはずである。
そもそも、教育というのは、やってもやらなくても、教育の結果の格差は拡大するのである。特に、重要なことは、優れた教育をすれば、それだけ格差もより大きく広がるのだ。それは、新しいスポーツを始めることを考えればわかる。初心者のグループに、優れた指導能力をもったコーチと、能力が低く、精神論でしごいていくコーチとによって指導を受けたふたつのグループはどうなっていくだろうか。両方とも、うまくなる人とそうでもない人に分かれていくに違いない。つまり、格差ができてくるのだ。しかし、優れたコーチに指導されたほうが、個々人の進歩は、しごき指導のコーチよりも大きいはずである。そして、優れたコーチに指導されたなかでも、意欲と才能のある人は、大きな進歩をとげるに違いない。他方、単なるしごき指導を受けた才能ある人は、どうやって技術を向上させるかが充分には理解できないし、途中で嫌になるかも知れない。だから、そうした非常に大きく成長する人が生まれるだけ、優れた指導を受けたときのほうが、格差拡大の度合いが大きくなるものなのだ。だから、大事なことは、格差が広がることではなく、個々人の成長発達の度合いが、各人の努力や意欲、才能に応じて、大きくなるようにすることなのである。
さて、遠隔授業ではどう考えるべきか。
休校なのだから、放置するよりは、なんらかの形で遠隔授業を導入することが、よいというより、必要であるというべきだ。もちろん、効果的な遠隔授業であるほうが望ましいが、可能な限りということだろう。では、遠隔授業に対応できない子どもはどうするのか。それはいろいろありうる。
私が校長なら、例えば、遠隔授業で実際に教室で教師が授業をして、環境が整っている家庭の子どもは、リアルタイムで家庭でその授業を受けさせる。もちろん、応答もできる方式を考える。ネットで遠隔授業を受ける環境のない子どもは、登校して、教室で授業を受けるようにする。
休校といっても、家庭で親が世話をできない場合は、学校が特別に登校させて、充分な配慮をした上で指導をしてもよいのだ。それを明確に禁止などしていない。要するに、密になることを避ける条件を作っておけばいいのであって、やりようはいくらでもあるのだ。
つまり、教育格差がある、格差を拡大するから、何かをしない、というのは、全体を低い水準におさえたまま、格差を拡大するのであって、それが問題なのである。逆に、条件的な格差を埋めながら、必要なことをしっかりやっていく必要がある、そして、その結果格差が拡大しても、それは教育の効果が表れたものと考えることができるのである。