岐阜でのホームレス殺害は、大きなショックを受けたが、その後、まるでお決まりのように、ネット上で容疑者の個人情報を晒す試みがなされている。しかも、今回は、同じ野球部員ではあっても、まったく事件とは無関係の者も、容疑者であると決めつける書き込みが拡散しているのだという。「岐阜ホームレス殺害事件 ネット上で犯人と誹謗中傷された朝日大の野球部員が訴訟検討」(https://www.msn.com/ja-jp/news/national/岐阜ホームレス殺害事件-ネット上で犯人と誹謗中傷された朝日大の野球部員が訴訟検討/ar-BB13FEiS?ocid=spartandhp)
問題は3つある。
最も大きな問題は、容疑者でもない人が、そうであるように書かれ、当人に大きな被害が生じていることだ。これは、個人情報として書き込んだ者も、なんらかの誹謗中傷を行った者も、きちんとした謝罪と間違いであったことを公表する責任があるだろう。記事の題名のように、この被害者は訴訟も考えているということだが、当然であろう。しかし、訴訟を起こすということは、かなり大変なエネルギーと費用を必要とするものであり、勝手にこうしたこと、それこそ違法行為なのだが、誹謗中傷、プライバシー毀損をすることには、怒りを感じる。
第二は、若干微妙な書き方だが、このアエラの記事は、容疑者であれば、ネット上での個人情報を晒すことは、仕方ないかのようにも読める部分がある。
「逮捕された野球部員ら容疑者は全員、未成年だったため、実名などは公表されていないが、インターネット上では個人情報を晒されている事態になっている。」「もちろん、残忍な行動で男性を死に追い込んだ5人の容疑者は厳しく処罰されるべきだ。だが、無実の人間を犯罪者におとしめるような誹謗中傷の書き込みは絶対に許されない。」
ここでは、個人情報を晒すこと「自体」を批判していない。最後に強調しているのは、「無実の人間」に対する誹謗中傷が絶対に許されない点である。しかし、たとえ実際の犯人であっても、また、大人であっても、個人情報を勝手に公表して、社会的な圧力をかけたり、脅迫行為を誘発したり、また、実行したりすることは、絶対に許されることではない。まさしくそれは、「リンチ(私刑)」であって、法によって禁じられていることである。
そして、最も重要なことで、かつ、社会的意識はそうなっていないのだが、犯罪者の個人情報を、既存のメディアでも、報道することは、妥当ではないということだ。現在は、容疑者の個人情報を報道することは、容認されている。しかし、少数ではあるが、国家として、容疑者、犯罪者の実名を報道規制している国もある。私は、よほど重大な犯罪、例えばサリン事件のようなもの以外は、実名をだすべきではないと考えている。そして、実名が報道されて、そうした情報をえられることの利益を感じない。もちろん、事件そのものは報道すべきだろう。しかし、それをその加害者と被害者の名前を知ったからといって、その事件の理解には、なんらプラスになるところはない。
事件報道が役に立つことがあるとしたら、そうした事件が自分に降りかかることへの対策ができることだろうが、そのためには、加害者や被害者の個人情報を知る必要はないのである。概要がわかればすむことだ。
「国民には知る権利がある」とメディアは主張するが、関係者に二次被害が及ぶ要因にあることまで「知る権利」があるとは思えない。「知る権利がある」というメディア、そしてそれを支持する人々の意識には、歪んだ正義感に基づく報復感情を感じてしまう。犯罪者には、国家がしかるべき罰を与えるのであって、社会や正義感をもった個人が制裁するのではない。それが近代社会である。
インターネットが普及する以前は、たとえメディアが報道しても、そのことが生む二次被害は、あってもまだ小さいものだったといえる。しかし、今のようにネット社会では、メディアが個人名をださなくても、詳しい報道をすることによって、さまざまな手段(主にネット検索)を使って個人情報を探り出され、更に、さまざまな圧力や暴力がもたらされる。無関係の人へのそうした行為が許されないことは、社会的コンセンサスであるとしても、真犯人ならそうしてもいいような雰囲気は、本当に恐ろしい。そういう意味でも、既存メディアは、今こそ、犯罪報道を匿名報道の方向にもっていくべきではないかと思うのである。