今日は憲法記念日なので、憲法について少々考えたい。
私は、憲法をずっと変更なく維持することに賛成ではないし、現在の憲法で変更が必要である部分はいくつかあると感じている。しかし、その多くは人権の部分のより充実であって、9条を変更する必要はないと考えている。護憲派は平和ボケだという批判があるが、むしろ、改憲派こそ平和ボケだと思っている。日本が戦後、各地の戦争に巻き込まれることがなかったのは、明らかに憲法のおかげであって、憲法があっても平和だったのではなく、憲法があったからこそ平和だったのである。もし、日本国憲法、そして第9条がなければ、ベトナム戦争に、日本はもっと深く関わり、軍隊を派遣せざるをえなかった可能性が高い。湾岸戦争で、「感謝されなかった」ことで、人をださなければならないなどという「反省」をしたが、私は妙な反省をしたものだと思う。クウェートは、湾岸戦争で自分たちを助けてくれた国に感謝の念を表明したが、日本がそこになかったことで、日本の政府関係者は大きなショックを受けた。日本だって大きな貢献をしたのに、と。しかし、日本は、アメリカに対して軍事費を提供したのであって、クウェートを直接援助したわけではなかった。だから、表のなかになかったとしても、別に不思議ではなかったのだ。むしろ、戦争行為に加担せずに済んだことをよかったと思う。
護憲派は、日本が攻められたらどうするのだというが、現在、攻められたのに闘う権利がないなどと主張している政治勢力は存在しない。それは9条でも認めていると、ほとんどの人たちが認めている。問題は、日本が関わらない国際紛争を「解決」するという名目で、戦闘行為に参加することであり、それは、厳に避けるべきであり、9条はその歯止めになっているから、断固維持すべきものである。
さて、現在、改憲派は、緊急事態への対応が、現憲法においてはできない、などといって、改憲を主張している。今日の改憲派集会でそのような主張がされたことを、ニュースで報道している。まるで、新型コロナウィルス対策が、そうした緊急事態への対応ができない憲法だから、後手後手になったとでもいいたげである。しかし、今年になっての新型コロナウィルスに対する政府の対応をみれば、これがいかに無責任な主張であるかは、明らかだろう。
最初に新型コロナウィルスの被害に襲われた中国と韓国は、現在かなり収束していると考えられる。中国に関しては、いろいろと批判もあるが、韓国の感染がかなり制御されていることは、事実だろう。当初、深刻になっていた韓国を、日本政府は失策をあざ笑うかのようにみていたのではないか。その証拠に、韓国がやったことを、日本政府は断固として排除してきた。徹底したPCR検査と陽性者の隔離という方式である。日本は、制限されたPCR検査と、陽性者全員の入院という、極めて無理な方式をとった。クラスター対策などという、世界で例のないやり方を、いまだに改めているとはいえない。世界で他にやっているところがないということは、他の国は、まったくその有効性を信じていないからだろう。当初は効果があったという評価もあるが、私は、このクラスター概念の導入こそが、その後の新型コロナウィルス対策の間違いを引き起こしたと思う。
PCR検査の制限の理由は、いまだに専門家にすらわからないらしい。しかし、とにかく、感染者を低く見積もる効果がずっと維持されており、それがリアルな現実を認識できず、穴だらけの対応が続くことになった。それだけではなく、アベノマスクなどに象徴される愚策としかいいようがないやり方も多々ある。緊急事態宣言もかなり遅れたというのが、多くの評価だ。民主党政権のときに作られた法を適用すれば済むにもかかわらず、自分たちで改訂することに拘った結果でもある。
そして、現在、緊急事態宣言を延長することになるが、出口戦略はまったく描くことができない。おそらく、今後言葉としては出てくるだろうが、説得力のある根拠なしに出てくるだろう。
こういう経過で明らかになったことは、(前から明らかであるが、自民党の支持者にも明らかになった)安倍晋三という人には、まったくリーダーシップ能力がないということだ。自分の地位を保持するための策略には長けていて、そのためには果敢に何かをするが、国民のための政治を、先頭をきって、切り開いていくなどということは、能力もないし、おそらく意欲もないのだろう。
そういう人物が、憲法改正という、国家の構造を描く作業を、将来的展望をしっかりと見据えて、実践できるとはとうていいえない。そのことは、自民党議員だってわかっているのではないか。
憲法改正の議論は行うべきだが、それは安倍内閣の次の内閣まで、待つ必要がある。