日本の学校には、非常にたくさんの行事がある。しかもその目的が多岐にわたっている。ヨーロッパ的な公教育の目的からみれば、あまりに盛りだくさんのことが、学校、つまり教師に要求されていることになる。しかし、そうして多くのことを学校に求めることによって、教師の負担過重が起こり、その結果として、本来学校が果たすべきことが薄まってしまっているのが現実ではないだろうか。もちろん、行事は子どもたちにとって楽しいものであることが多いだろうし、思い出に残るものでもある。しかし、それがあまりに教師たちに大きな負担を強いるものであるとすれば、考えなおす必要がある。
ここでは、集団宿泊的行事について考える。
学習指導要領には、特別活動の学校行事の項目で、「遠足・集団宿泊的行事」が明記されている。
〔学校行事〕
1 目標
学校行事を通して,望ましい人間関係を形成し,集団への所属感や連帯感を深め,公共の精神を養い,協力してよりよい学校生活を築こうとする自主的,実践的な態度を育てる。
2 内容
全校又は学年を単位として,学校生活に秩序と変化を与え,学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこと。
(1) 儀式的行事
学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。
(2) 文化的行事
平素の学習活動の成果を発表し,その向上の意欲を一層高めたり,文化や芸術に親しんだりするような活動を行うこと。
(3) 健康安全・体育的行事
心身の健全な発達や健康の保持増進などについての関心を高め,安全な行動や規律ある集団行動の体得,運動に親しむ態度の育成,責任感や連帯感の涵(かん)養,体力の向上などに資するような活動を行うこと。
(4) 遠足・集団宿泊的行事
自然の中での集団宿泊活動などの平素と異なる生活環境にあって,見聞を広め,自然や文化などに親しむとともに,人間関係などの集団生活の在り方や公衆道徳などについての望ましい体験を積むことができるような活動を行うこと。
(5) 勤労生産・奉仕的行事
勤労の尊さや生産の喜びを体得するとともに,ボランティア活動などの社会奉仕の精神を養う体験が得られるような活動を行うこと。
この規定でわかることは、「平素と異なる環境の経験」「集団生活の在り方」「公衆道徳」の体験をすることが意図されていることだ。ただ、遠足はそれほど多くの負担を強いるわけではないので、集団宿泊的行事について考えることにする。
宿泊を伴うというと、一般的なものは修学旅行であり、卒業学年に関わらないものとしては、林間学校や臨海学校(言い方は様々だが)等がある。宿泊といっても、ほとんどの場合学校の近所ではなく、バスや列車を利用して遠方に行くから、確かに「平素と異なる環境」の経験となるし、ほぼ全員が参加するので、集団生活の在り方や公衆道徳を学ぶことには都合がよい。
しかし、それを学校教育でやる必要があるか、あるいは有効かは別問題だろう。「平素と異なる環境の経験」で「集団生活」や「公衆道徳」を学ぶのであれば、人間関係そのものも「平素と異なる」ほうが有効であるような気がする。むしろ、同じ学校のメンバーであれば、単に生活環境が変わるだけだ。だから、欧米では、日本のような林間学校、臨海学校ではなく、多様な地域から参加するサマーキャンプが主流である。
元々林間学校のような試みは、戦前始まったもので、虚弱体質の子どもを、自然豊かな環境のなかで生活することで、身体を強健にすることを目指したものだったとされる。(渡辺貴裕「林間学校の誕生:衛生的意義から教育的意義へ」京都大学大学員教育額研究科紀要2005)それが戦後養護学校として発展したとされるが、別に、戦後も、肥満児童のための施設が設置されていた時期がある。特に東京のような大都市では、運動不足で肥満になる児童が少なくなく、他県の山間部に作られた施設で、数カ月過ごすことで、肥満を解消する取り組みがなされていた。
こうした施設や活動の共通の特徴は、そこに専門の設備と人員が配置されていたことである。従って、その目的に適う効果が期待できた、そこで指導する教職員が、過大な負担を負う必要もなかったが、現在の集団宿泊的行事は、施設は多くが専用であるが、指導は学校の教師が行い、メンバーもそのまま学校での単位が移行する。従って、普段の指導とは全く異なる作業をしなければならない教師たちに、多大な負担が負わされる結果になっている。
では、どのくらいの労働が課せられるのだろうか。
これは、端的にいえば、学校を出発してから、帰校するまでずっと緊張が強いられると考えるべきものだろう。いかなる時間帯に何か事故があっても、引率している教職員の責任になるからである。しかし、だからといって、その全時間帯が勤務時間として計算している場合はない。また、確かに教職員も就寝するから、全時間をカウントすることが合理的ともいえない。
どのように計算しているかは、正直なかなかわからなかった。文科省のホームページをみても、推奨の計算基準は見つからない。基本的には、教育委員会が決めていることだろう。
私がみることができた資料としては、大阪市学校園教職員組合の文書がある。宿泊行事に関する教職員の勤務時間を前日から宿泊し、当日も宿泊する日に関して、11時間45分としている。https://osaka-shikyo.org/archives/2272
11時間45分として計算して、8時間労働を越える分、つまり、3時間45分を別の勤務時間帯で休暇をとれるようにして解消することを、組合資料は示していることになるが、組合の文書だから、実態としてそうしたやり方が保障されているかどうかは、不明であった。私が知る限り、東京都はこの数字ではないとしても、ある程度の代替休暇時間が認められているようだ。
ただし、「教育公務員の勤務時間について」と題する文書で、文科省は、「修学旅行その他の行事に関する業務については、時間外勤務を命じることがてきる対象」となっている。可能性としては、特別手当が支給されているから、集団宿泊的行事での超過勤務も、既に手当が支払われているとするやり方も排除できない。「代休」を設けるという指示もあるが、算定方法については何ら言われていないのである。
大阪の教員組合の主張のように、11時間45分の勤務で、超過分を代休扱いにするということが認められたとして、それは妥当だろうか。
出発日や帰校日ではなく、一日拘束される日を考えてみよう。
11時間45分という計算は、7時に起床してから、6時45分に夕食を終えるまでという計算か、あるいは、1時間の昼休みなどをいれて、7時45分に風呂まではいり、自由時間となるとするのか、それはまったく触れていないので、具体的には、わからないが、いずれにせよ、1時間の休憩など実際にはとれないし、また、自由時間後は仕事から解放される実態はないだろう。
自分が子どものときにこうした行事に参加した人は、だれだって、自由時間に大人しくしていたなどという記憶はないに違いない。自由時間こそ、最も指導が必要な事態がおきる時間帯だ。就寝時間になっても、枕投げなどさまざまなことがおきる。完全な就寝時間になったとしても、教師たちが完全にフリーになるわけでもないのだ。今の学級には、実に多様な子どもがいるから、なかには特別に手のかかる場合もある。最も、引率の教師が苦労するのは、夜中にトイレにいかせる必要がある子どもの世話であるという。多くの子どもは、就寝前にトイレにいけば、朝までいく必要はないか、あるいは自分で起きていくことができる。しかし、なかには、必ずトイレにいく必要があるが、自分では行けない子どもがいるのだそうだ。そうすると、決められた時間に、教師が起きていなければならない。ほとんど24時間労働に近いような集団宿泊行事に、こうした負担が加わると、本当に大変なんだということだ。もちろん、必要な世話ということで、教師たちはきちんと対応している。しかし、それは教師の犠牲的労働において成立しているのだ。
こうした学校行事は、おそらく日本的特徴といえるものであり、この活動に生きがいを感じる教師がたくさんいるし、また、保護者も歓迎する人が多いだろう。しかし、宿泊行事に関しては、負担に感じる教師も多いに違いない。欧米がなんでもいいというつもりはないが、欧米では義務教育学校における宿泊行事は、極めて少ないのではないだろうか。私が子どものころにも、臨海学校や林間学校などがあったが、今と様相が違うのは、私のころは、参加しない子どももけっこういたし、2度ある機会に、私は1度しか参加しなかった。今では、ほとんどが参加すると聞いている。
参加しない人が少なくない場合には、宿泊行事が何らかの理由で負担になる子どもは、参加しないで済むが、ほぼ全員が参加する場合には、参加しないことは取り残される感じになるだろう。
集団宿泊行事に期待する保護者も、この活動が教師の犠牲的労働によって成り立っていることを、もっと理解すべきである。極めて議論がしにくい問題であるが、親はどこまで要求できるのかという問題を提起しているのである。
このように考えると、集団宿泊的行事は、基本的に教職員に過大な負担を課すものであり、合理的な勤務配分をすることは不可能である。従って、教職員の過重な負担を軽減するためには、この種の行事をなくすことが必要である。しかし、それは、教育全体からこのような活動をなくすことを意味するわけではない。
よくよく考えてみると、こうした宿泊行事が行われているということは、日本の学校教育の「豊富」な活動を示している思われるかも知れないが、実際には、総体としての教育の貧しさを示している。何故欧米では、こうした宿泊行事が学校にはないのか。それは、もっと充実した宿泊施設、つまりキャンプ施設があるからだ。下の写真は、アメリカのキャンプ場である。
アメリカのホームドラマなどをみていると、子どもが一月くらいキャンプにでかけ、その間は夫婦がのんびり過ごすというような場面がよく出てくる。ケストナー原作の「ふたりのロッテ」を原作にしたディズニー映画の「ファミリー・ゲーム」は、親の離婚で別々に生活している双子が、キャンプ場で出会い、自分たちが姉妹であることを確認して、入れ代わって帰宅し、両親を仲直りさせるという話だが、アメリカのキャンプの様子がよくわかる。専門の指導員と世話人がいて、ロッジのような家が用意されていて、自然豊かな環境で、1カ月くらいを過ごすわけである。日本の集団宿泊行事のように、2、3日ではない。原作のロッテもキャンプ場で出会うので、ヨーロッパでも戦前から、同じようなシステムがあったことがわかる。ソ連時代のピオネールの活動なども、キャンプが重視されている。
このように考えてみれば、宿泊行事がある日本の学校教育が、豊かな内容をもっているのではなく、自然豊かな環境で、夏休みなどを過ごすことができない、社会教育の貧しさを象徴しているのである。
では、日本ではこのような取り組みは不可能なのだろうか。
私は、充分に可能であるし、また、教育だけではなく、社会的な歪みを是正していく上でも、有効なのではないかと思うのである。
まず、日本はますます過疎化した地域が増えている。若者人口は都会に集中し、地方では高齢者が圧倒的な部分を占めているような地域がたくさんある。そのようなところでは、廃校となった学校も少なくないだろうし、さまざまな公的施設が使われないまま放置されているのもたくさんあるだろう。そして、先進国で日本ほど自然が豊かな国は、あまりないのだ。
そういう地域を利用して、キャンプ場を作り、あるいは廃校になった学校を転用してもよい。そこに指導員を常駐させる。もちろん、指導員が充分確保できるかどうかは問題だろうが、過疎の村おこしの手段にはなるのではないだろうか。
夏休みは長期として、それ以外は、短期の、つまり、学校で行われている宿泊行事をそうしたキャンプ場に託す形での活動をすれば、年間を通して、活動することができる。そこに、仕事も他に生まれるのではないだろうか。完全に社会教育施設として作るのか、あるいは、民間に助成する形なのかは、いろいろありうると思うが、このような施設を建設可能な地域は、かなりあると想像できる。また、食事等、さまざまな生活サービスは、高齢者で仕事ができる人もいるだろうし、また、そういう仕事に魅力を感じて移ってくる若者も、かならずいると思われる。
ネット上には、キャンプ施設は多数宣伝されており、林間学校の受け入れが可能な施設も少なくない。例えば、兵庫県にある「多可青雲の家」は、200名までの宿泊が可能で、様々な催物が可能な設備が整っている。可能な活動例は以下のようになっている。
もちろん、集団宿泊行事だけを、ここに移すのではなく、奉仕活動や勤労生産活動なども、同時にできるような施設にしておけば、ますます学校の負担は軽くなるはずである。そして、その個々の行事自体の充実度も確実にあがるはずなのである。更に、複数の学校が一緒にキャンプするようになれば、自分たちだけの交流ではなく、幅広い人間関係を学ぶこともできる。そうした、もっと豊かな教育体制に前進していくべき時期ではなかろうか。