教育にとって「形式」とは何だろうか。
学校現場に「挨拶競争」という指導方法がある。子どもたちに挨拶を習慣化させるための一種の戦略的手法である。今ではTOSSと言われる団体が、技法として広めた。
教師が「明日から挨拶競争を始めましょう。誰かと会ったとき、どちらが先に挨拶をするかという競争です。先生も参加します。最初に言った方が勝ちです。」
翌日から早速始め、終わりの会で、結果を出し合う。子どもたちは、口々に述べあう。「先生は、今日はずっと負けっぱなしでした。みんなすごいですね。先生たちも感心していました。でも明日からは負けません。」
こうやってしばらく続けると、習慣化するというのである。
この実践方式を学生と議論すると、必ず相反する立場に分かれる。反対派は、「挨拶は心が伴っていないと意味がないので、ただ単に挨拶するだけでは意味がない。まして、競争に勝つために挨拶するなんて、挨拶の正しい姿ではない」という。それに対して、賛成派は、更にふたつに分かれる。「そもそも挨拶は形式であって、心がこもっているかどうかは関係ない。だから、形式的でも挨拶を習慣化する方法として効果があればよい」という見解と、「最初は競争で形式的な挨拶をしているとしても、挨拶が習慣化すれば、互いに雰囲気が和らぐので、挨拶の効用を理解するようになる。」というものだ。基本的には、挨拶を「形式」と考えるか、形式以上の実質を求めるかという違いと考えてよい。
もうひとつ例をだそう。
大学では、様々な選抜をするときに、よく小論文を書かせる。私の大学は、教師希望者が多いために、そうした選抜は教員採用に関することが多く、小論文も教員採用試験に似せた問題文が多い。そして、県によっても多少の違いがあるが、教員採用試験の小論文は、だいたいがある一定のパターンがある。政策的に要請されていることを示し、それについてどう思うか、また、そのことの実現のために、何をするか、あるいは将来のために、今どのように学んでいるかが問われる。こういう問題を出せば、ほとんどの答案は似たりよったりになる。「どう思うか」について、疑問を出すことは許されないと受験生は感じる。そしてその要請に対しての実践は、それほど多様性がない。つまり、書くべき内容が制約されているのである。
これに似た問題での大学選抜について、教員たちは少なからず疑問も呈する。あるとき、ある中心的な役割を果たしている教授が、「でも形式が重要なんですよ」と言って、疑問を制したことがある。つまり、極端にいえば、今の学校教育では、「形式的に教えること」が重視されている、あるいは、そうでないとしても、そこに逃げ込んでいる場面が多いと言わざるをえない。
挨拶でいえば、競争に勝つための挨拶ではなく、やはり、コミュニケーションとしての挨拶につながる必要があるだろうし、教師が子どもの挨拶を受けるときには、そこからその子の状況をある程度見極めることも重要だろう。
小論文でいえば、論文である以上、やはり、ネガティブな見解を論じてもよいような問題にしなければ、論文で求める能力を測ることはできない。論じるよりも、形式を重視するというのであれば、論外だろう。
やはり、形式のみに意味があるような行為は、できる限り削るべきである。教育とは、実質的な能力を向上させることが大事なのだから。
もちろん教育において、形式が重要であることも少なくない。算数や数学は、形式化されたこと(定理や解法)の理解が重要である。しかし、形式以外にあまり意味のないこともあるのではないだろうか。前回述べた慣習化した作法などがそれにあたる。もちろん、形式のなかに、実質をいれていくことが意味を持つこともあるだろうが、実際には、形式的に行われているにすぎないことがあれば、それは削っていくべきであろう。そうしたいくつかの「儀式」をあげてみたい。
始業式・終業式
日本の学校の新学期は、始業式から始まる。そして、始業式を行うことに疑問をもっている人たちは、ほとんどいないだろう。しかし、欧米の学校の実情を知っている人にとっては、当たり前のことではなくなる。私が知る限り、欧米の学校には、始業式はない。おそらく、朝礼とか昼礼などもない。そもそも、始業式や朝礼が楽しかったとか、思い出に残っているとか、そういう人はいるのだろうか。私には、「整列」させることと、校長が訓辞を述べること以外の目的はないように感じる。校長の話にしても、必要だからやっているよりは、朝礼という場があるからやるという印象だ。本当に必要な伝達事項であれば、もっと効果的な方法はたくさんある。今は、校内放送設備やインターネットが普及しているのだから、校長が伝えたいことは、給食の時間等に放送を使えばいいし、それをインターネットでも閲覧できるようにしておけば、内容が確実に伝わるだろう。始業式や朝礼などで、少しではあっても、確実に授業が削られる。
離任式
離任式とは、新年度に入ってから行うことが多いようだが、他校に移った教師が、挨拶に元の学校にきて行うお別れの式である。何故、わざわざ進学年度になって行うのか、私には、あまりよくわからない。私が子どものころには、移っていく教師は、年度の最後の式で挨拶をしたと記憶する。また、終業式で行われ、わざわざそのための儀式が行われることもなかった。離れるのだから、年度末にお別れをし、新しい学校では、新任式を行うのが筋ではなかろうか。もちろん、それは行っているのだろうが。もし、人事異動の発表が遅れるかからということが理由であれば、教育委員会がもっと早く人事を決めるべきだろう。
朝礼・昼礼
私が子どものころは、ほぼもっぱら朝礼が行われていたと思う。いつからか、昼礼になる学校もでてくるようになった。いずれにせよ、主に校長が話をして、表彰や実習生の紹介など特別な事情があれば、そのひとたちが挨拶にたつという式である。
教室から出て整列し、また、順番に教室に戻っていく時間がかなりかかっていた記憶がある。おそらく、通常の規模の学校であれば、かなりの時間を使うだろう。だから、行わない学校もあるし、また、給食の時間に校内放送で校長が挨拶するやり方もある。校長が子どもたちに接するというより、子どもたちが校長に親しむ機会は必要だから、日常的な接点があるのはよいことだろう。しかし、それは、儀式として行うよりは、コミュニケーションを伴う方法か望ましいのではないだろうか。
私が小中学生のころは、校長の話を、整列して聞き、行進して校舎に入っていくという「訓練的要素」があったが、今はそうした内容が重視されているようには思われない。行進などの訓練は、意味があると思うが、体育の時間にきちんと行うべきものだろう。ただ、近年は朝礼や昼礼は廃止されている学校も少なくないようだ。
授業参観
授業参観は、学校としては重要な行事だが、どれだけ実質的な意味があるかは、かなり疑わしい。一体何を見せるのだろうか。明らかによそ行きの授業、子どもたちの様子だ。普段とは異なる状況を見ても、あまり参考にならない。私も子どもの授業参観にいったことがあるが、授業をみるよりは、子どもの様子を保護者の多くはみているのだろう。
授業参観は、もちろん教育的に意味があると思われる。親にとって、家庭とは違う子どもの姿を見ることかできる。また、教師にとっては、どのようなクラスの雰囲気であるのか、また、どのような授業をしているのかを、親にみてもらうことは、相互の理解にとって好ましいだろう。もっとも、授業参観をきっかけに、相互不信に陥ることもある。教師の行う授業に疑問をいだいたり、あるいは、参観している親たちの態度に教師が不快感をもったりすることもあるようだ。そうした行き違いは、その後のコミュニケーションによって克服するしかないだろう。
私が現状の授業参観を疑問に思うのは、一種の行事化した姿を見せているに過ぎないということ、つまり、普段の教室の様子とは異なる風景をみることになる点である。親が教室の雰囲気を知ることかできるようにするならば、日常的に、あるいはそれでは弊害があるというならば、ある程度続く期間を設けて、親が自由に見ることができるようにするほうがよい。特定の日を指定すると、都合の悪い親がどうしても出てくるし、通常父親はあまり来ない。1週間あるいはもう少し長期に設定すれば、都合をつけることがそれだけ容易になる。そして、見せる教室風景も日常的なものに近づくはずである。
学習指導要領では、儀式的行事という規定があるが、具体的に出てくるのは、入学式と卒業式だけであり、国旗・国家の扱いを規定している。従って、始業式・終業式等は、学習指導要領で行うことが義務付けられているわけではないのである。
学習指導要領は、儀式などの「厳粛さ」を重視しているが、私は大いに疑問である。「厳粛さ」は、権力をもつものが、自分の「権威」を誇示するための「雰囲気」のことであるが、教育という行為は、「権力的要素」をできるだけ排除することが、効果を高めるためには必要である。教える側が権力をもっているから、学習者が受け入れるのではなく、教えることが楽しい、あるいは説得力があるから受け入れるのである。校長の訓辞についても、大勢で、厳粛な雰囲気のなかで聞くよりは、少人数で聞き、更に気になったときに、質問ができたり、再度聞けることのほうが、ずっと内容が正確に伝わるだろう。また、厳粛で儀式ばった話よりは、もっと自由でゆったりした、あるいはくだけた雰囲気で話される内容のほうがずっと心に届くのではないだろうか。効果に対する「合理性」が、学校教育のいろいろなところで欠如している。
では、始業式や終業式は何故やるのだろうか。これはあまり「厳粛」に行われることはない。おそらく「けじめ」という感覚なのだろうと想像する。授業の開始にも、起立・礼をするのと同じである。つまり、「けじめの儀式」なのだ。
話がそれてしまうが、私は市民オーケストラで活動しているので、オーケストラの「練習開始」つまり、けじめの付け方を披露したい。
私は大学に勤めているので、ときどき大学のオーケストラに出演させてもらったことがある。学生オケの場合どこでも同じかどうかはわからないが、とりあえず私の大学の場合はこうだ。
時間になって指揮者が前にたつと、代表者が、合図をして、全員が起立する。そして、「今日は**先生が指揮をしてくださいます。」「お願いします。」と全員が大きな声で。「また、本日は**先輩と++先輩が参加してくださいます。」「お願いします。」とまた全員。そして、礼をして座り、練習が始まる。
市民オケの場合はどうか。指揮者が指揮台にたって、「さあ始めましょう」というと、全員がさっとたって、「お願いします」という。あまり大きな声はださない。別に誰かが音頭をとるなどはない。
プロオケはどうだろう。これはリハーサルの映像でたくさんでているが、だいたい同じである。プロオケは、3日間ですべてを仕上げるので、映像は指揮者の最初の練習であることが多い。そのときには、楽団長が、今回の指揮はマエストロ**です、と簡単な紹介をすると、楽団員が拍手をして、それでお終いである。2回目以降だと、指揮者がやってくると拍手で迎え、直ぐに練習に入る。起立礼などは、見たことがない。
何故この話をしたかはわかるだろう。つまり、レベルがあがる団体ほど、「けじめの儀式」などはないのだということだ。逆にいえば、学校で「けじめの儀式」が重視されているということは、教育の質が低い水準で構想されているということを示しているのだ。斉藤喜博の実践の映像などをみると、この「けじめの儀式」はほとんどないと感じる。
所沢高校問題
如何に、学校あるいは教育行政が、「厳粛」な形式的な儀式を重視しているかを考えるために、今はあまり記憶に残っていないかも知れない「所沢高校問題」について、最後に考えておこう。
埼玉県立所沢高校では、長年教師と生徒会が共同で卒業式と入学式を行ってきた。生徒がかなり主体的につくっていくもので、いわゆる「厳粛」な儀式とは異なっていた。そうした生徒主体とやり方を改めさせるために、1997年に、県教育委員会は校長を交代させ、新任校長は、伝統的な卒業式を実行したところ、卒業生は20人を除いてほぼ全員がボイコットした。そして、新年度の入学式も同様にしたところ、生徒会は「入学を祝う会」を計画していたが、校長はそれを認めず、また、「厳粛」な入学式を強行し、その際、教育委員会は、入学式に出席しないと入学の権利を認めないという、法的に成り立たない見解を示した。入学を祝う会には多く参加があり、入学式は半数であった。その後、教育委員会は、生徒主体のやり方を支持していた教師たちを転任させていき、結局、教育委員会の意図する高校に変質していった。
これは、単に「政治的な対立」ではなく、生徒が積極的にものごとを進めていくことを促進していくのでなく、形式的なことに従属させる資質を重視する教育行政の姿勢が、顕著に表れたものである。こうした高校の取り組みが、抑圧されていく事態は、他の県でも起こっていた。実は、私が住んでいる地域でも、ほとんど同じようなことが起きた。この時期に学力低下問題がおき、その後PISAで、日本の学力のあり方が問題とされるような事態は、実は、このような「形式」の押しつけと密接に関係しているように思われる。更に、大学での研究の国際的な遅れが、この後深刻になっていくが、それも同様な背景をもっている。
学校におけるブラック化も実は同じところから起きているのである。教育の「形式化」は、私には非常に深刻な状況に思われる。「形式主義」は、学習の効果を高めるものではなく、阻害するものなのである。