鬼平犯科帳は、いうまでもなく、犯罪者、とくに盗賊の犯罪を扱った小説である。盗賊といっても、様々なタイプの盗人が登場する。しかも、「本格の盗賊」とそうでないものに区分までしている。本格の盗賊とは、
・盗られてこまるようなところからは盗らない。
・人を殺さない。
・女を犯さない。
という三カ条を守るものをという。それに対して、財産全部盗ったり、あるいは殺人、強姦をするものに対して、平蔵は厳しく取り締まるし、また、本格盗賊も、彼らの軽蔑する。
ところで、盗賊といっても、いつまでも盗みを働き続けるわけではなく、途中で嫌になったり、あるいは、高齢になって引退することもある。また、捕まってしまう場合もある。捕まった者のなかで、改心し、役に立つと平蔵が判断すると、密偵に取り立てる場合もある。そういう引退したり、あるいは、密偵になった元盗賊が、盗みへの欲求を抑えられなくなるときがあるようだ。また、とくに盗賊だったするわけでもない、普段は善人なのに、ふと火付けをする話もある。
鬼平犯科帳の基本認識してと、悪と善は紙一重というのがある。それは、現代社会でも充分にいえることである。
会社に忠誠を表わすために、汚職に手を染める者などは、悪人とはいえない。あるいは、ネットでのウィルスを創作しているひとたちは、実は、セキュリティソフト開発に手腕を発揮する人材になったりする。捜査機関が、盗聴をしかけたりする行為は、善なのだろうか。
このことは、人間の欲求について考えさせる。
マズローは、人間は欲求によって動かされ、しかも、低次の欲求が満たされると、次第に高次の欲求へと移行するという。そして、5段階の欲求を区分した。生理的欲求→安全欲求→社会的欲求→尊厳欲求→自己実現欲求の5段階である。
鬼平犯科帳に登場する元盗賊たちの例で考えてみよう。
平野屋源助は、元盗賊の首領だったが、完全に足を洗い、今は、江戸で玉風洞という扇屋を営んでいる。かつての部下茂助が番頭として、過去を知っているが、奉公人や茂助の妻は、一切その過去を知らない。ずっと商売人として、成功していたが、どうしても、「盗みの欲求」を抑えることができなくなって、となりで化粧品屋壺屋菊右衛門方に盗みに入るのである。半年かけて、となりの家の軒下に通じる穴を堀り、錠前作りの名人の助二郎に大枚50両を払って、鍵をつくってもらう。そして、ある日盗みにはいって300両を盗むのだが、少し経って、その300両をそっくり戻しておく。
つまり、あくまでも、「盗む」という行為に潜む「快感」を味わいたいという欲求に勝てなかったのである。あるいは、「してやったり」という成功感を再度味わいたかったのかも知れない。結局、助二郎と旧交をあたためた密偵宗平の報告によって、平野屋源助は、平蔵によって、再度盗みにはいろうとしているところを抑えられてしまうのだが、平蔵は、捕縛することなく、密偵にしてしまう。そして、源助と茂助は、その後密偵としてかなり活躍することになっている。(「穴」)
今は結婚して、幸せな生活をしている元掏摸の富は、掏摸をやめるために、一味から無断で逃げ出した過去がある。そして、たまたま昔の仲間七五三造に見つかってしまう。彼は、掏摸に失敗して、腕を切られ、掏摸ができなくなってしまったので、富に100両を要求する。さもなければ、親分に密告すると脅す。それで、いやいや、夫に隠れて掏摸をして、100両をつくって、七五三造にわたして、平穏な生活を取り戻す。実は、その間の富のやり口を偶然知った平蔵はずっと観察していたのだが、七五三造を捕縛するも、富を見逃していた。しかし、やがて、富は、自分の掏摸の術が衰えていないことを実感していたためか、しばらくたってから、掏摸を再び実行してしまい、見張っていた平蔵に取り押さえられる。一度は見逃した平蔵だが、今回は、逮捕せざるをえなかったわけである。(女掏摸お富」)
そして、鬼平犯科帳のなかで、このテーマに最も相応しいのは、「密偵たちの宴」で描かれた、平蔵直属の、最も信頼されている密偵たち5人が、盗みを働く話だ。相模の彦十、舟形の宗平、大滝の五郎蔵、小房の粂八、伊三次の5人である。もちろん、おまさも、相談の場にいるのだが、おまさだけは反対している。6人が集まって酒盛りをしているときに、最近の盗人のやり方に憤り、手本を見せてやりたいということになる。反対するおまさに、彦十がいう。
「ここにいる六人は、みんな、いい機会がありゃあ、むかし取った杵柄というやつで・・・お盗めの見本を世の中に見せてやりてえと、こうおもっているのさ。」
そして、長谷川様にもわからないように、やってのけようということで、相談がまとまったしまうのである。そして、見事に成功するのだが、長谷川平蔵は、密偵たちが行った盗みであることを見抜いてしまう。直接しかることはないが、おまさを通して、「密偵たちがしくじりをしたときには、腹を切らねばならない」とおまさに告げる。それをきいた密偵たちが、青くなるという落ちである。(「密偵たちの宴」)
この三つの事例は、どのようなレベルの欲求を追求したのだろうか。生理的欲求ともいえるが、社会的欲求、更に、自己実現欲求とも考えられなくもない。女掏摸お富は、若いころから、掏摸の術を徹底的に仕込まれて、かなりの腕になっていた。自分を育ててくれた親分が死んで、あとを継いだ新親分から意に添わない扱いを受けて逃げ出し、完全に掏摸とは無縁の生活をしていたのだが、七五三造にたかられて、仕方なく掏摸を再開したところ、当初不安だったが、最後には自信をもって実行できた。そして、その味を思い出すと、欲求にかられてしまうのである。私には、体内から沸き起こる欲求である点で、やはり生理的欲求のような気がする。生理的欲求である以上、抑えるのが難しい。だから、平蔵は逮捕して、投獄するつもりだ。
平野屋源助も、生理的欲求のように見えるが、しかし、それにしては、かなり長期的観点でものごとを進めている。源助は、非常に大きな盗賊の首領だった人物である。首領である以上、単に盗むだけではなく、人を動かす快感を味わっていただろう。そういう意味で、首領としての自分を取り戻す行為だったのではないか。とすれば、自己実現欲求ともいえるのではなかろうか。
主要密偵たちの行動はどうか。前の例と似た点もあるが、源助もお富も、犯罪の通常通り、人に知られぬようにやっている。知るのは被害者だけである。被害者が届ければ、知られることになるが、密偵たちの盗みは、むしろ盗みにはいったことが、知られることを割けていない。最初から、本物の盗みはどんなものか、知らせてやりたいという要求にかられている。だから、社会的欲求の要素が濃厚である。
こんなことを考えるのは馬鹿げたことだと思う人も多いだろうが、結局、犯罪を実行するのは、それなりの能力が必要であり、犯罪者は反社会的であるが、個人的には、有能な人材なのである。能力も意欲もない人間に、犯罪は無理である。したがって、おそらく多くの犯罪者は、更生すれば、社会にとって有用な人になりうる。行為の目的意識は歪んでいるが、実は、歪んだなりに、マズローが整理している、通常の欲求に対応しているものなのだ。その歪みをどう是正できるのか、それは個々に異なるだろうが、平蔵の犯罪者たちへの扱いに、そのヒントが隠されている。