再び刑事事件の「責任能力」が問題に 洲本5人刺殺、死刑破棄で無期懲役に

 2015年3月に、淡路島洲本で5人が刺殺される事件が起こった。全国に大きな反響があった大事件で、私も鮮明に憶えている。犯人は直ぐに逮捕され、裁判員裁判で死刑判決が出た。弁護側が控訴し、今日、一審判決が破棄され、無期懲役の判決がでた。再び、刑事責任能力が問われる難しい事例となっている。
 通常の殺人事件であれば、5人を刺殺したのだから、死刑判決がでることは、当然と思われるが、この事件では、当初からかなり難しい要素があった。
 朝日新聞の2017年3月22日号に次のような関連年表が掲載されている。
<2010年12月> 平野被告がインターネット上で他人を中傷し、精神科病院に措置入院
<2013年10月> 退院後、兵庫県明石市で一人暮らしをしながら治療
<2014年7月> 通院中断
<10月> 平野被告の母親から「息子が来るかも知れない。怖い」と保健所に相談。職員らが面談し、他人に危害を加える恐れはないと判断
<2015年1月> 洲本市の実家に戻る
<3月> 事件発生
<9月> 神戸地検が起訴。その後、裁判官、検察官、弁護人が公判前に争点などを協議
 ここでわかることは、平野被告が精神的な疾患を患っていたことである。本人がどう思っていたかは、当初は明らかでないが、インターネットでの誹謗事件で措置入院となっている。退院後、しばらく明石市で治療を受けていたが、やがて洲本の実家に戻った。そして、実家の母親から、保健所に相談があり、ここには書かれていないのだが、被害者となった平野毅さんも、危険を感じて、なんども警察に相談している。加害者家族も被害者家族も、それぞれ彼を恐れて、関係機関に相談していたのである。警察はとにかくパトロールをしていたが、しかし、本人に接触はしないままだった。この不十分な対応が、批判されることになった。
 1月に実家に帰省して、3月に事件を起こした。その間、地域では彼を恐れて、平穏ではなかったようだ。つまり、何かが起きることは、充分に予想できた。もちろん、事件などと無縁だった田舎の村だから、犯人の周辺以外では予想もしなかったに違いない。
 犯行は、2つの家族の5人を残忍な形でナイフで刺殺するというものだった。逃げて助かった人もいたが、被害者になったものは、いずれも逃げる力のない高齢者だった。それまでのいきさつや逃げた者がいたことから、直ぐに犯人は捕まった。そして、殺害したことは認めたが、「脳が乗っ取られて、命令されてやった」などと、自分の意思ではないことを主張していたという。
 当然、裁判の争点は、ほとんど唯一責任能力の有無だった。精神鑑定が二度行われ、いずれも、病気の影響はあるが、病気そのものが犯行を起こしたものではなく、責任能力はあると結論づけた。犯人は、無罪を一貫して主張していたが、鑑定が責任能力があると結論づけたのだから、死刑判決になることは自明のことだったろう。
 しかし、弁護側が控訴し、控訴審が開始されたときに、検察・弁護側双方が反対したにもかかわらず、裁判所が3度目の鑑定をすることを決定した。(朝日新聞2018.9.28)
 今日の神戸新聞によると、「一審判決は、過去に精神刺激薬を大量摂取したことによる「薬剤性精神病」と診断した鑑定を踏まえつつ、病気は殺害の決意や実行への影響が小さく「完全責任能力があった」と認定。一方、控訴審では、高裁の依頼で鑑定した医師が「妄想性障害」と診断。被害者から「電磁波攻撃を受けている」という同被告の妄想が悪化して「事件に圧倒的な影響を及ぼしていた」とした。」
 電磁波攻撃を受けいているという主張は、当初から犯人が述べていたことである。当然その事実を踏まえて、一審のときの精神鑑定では、責任能力があったとしている。
 被害者の側からすれば、この精神鑑定には、納得できないものを感じるだろう。電磁波攻撃を受けていたというような、当初からの主張を前提にしているにもかかわらず、「妄想が悪化して、事件に圧倒的な影響を及ぼした」としているが、当然、事件から3年ほど経っているのだし、しかも、死刑判決を受け、独房に収監されているので、病状は悪化しているのは事実だろう。しかし、その悪化が、事件前のことであると、どのようにしてわかるのか。
 また、検察・弁護側双方が反対しているにもかかわらず、新たな精神鑑定を実施したというのも、何故かよくわからない。というより、弁護側が反対している理由がわからないともいえる。一審の鑑定は、責任能力を認めているのだから、弁護側は新たな鑑定を求めるのが自然なわけだが。
 ネットの反応を見ると、裁判員裁判の判決がこんな感じで覆されるのでは、国民の意見を反映させるという意味がないではないかという不満が多い。しかし、三審制である以上、元判決が変更されることは仕方ない。結局、精神鑑定によって判決が変わること、精神鑑定そのものがやる人によって変わること、そこに不合理を感じる人は多いに違いない。
 事実は変わらず、容疑者が犯行を認めていることも同様である。ただし、容疑者は一貫して無罪を主張していた。しかし、常識的にみて、人を殺害したことは認め、しかし、それは脳を占領されて命令されてやったから無罪だ、と「論理的」に主張するという状況を目にすれば、「脳を占領されて命令された」などということを疑う人がほとんどだろう。助かるために主張していると。もし本当に脳が占領されているなら、支離滅裂なことをいうはずではないか。だから、記事データベースで関連記事をみた感じでは、私には、責任能力があるように感じた。つまり、自分がやっていることがわかっているという印象だ。(報道で見る限りというだけだが)
 ただし、インターネットでの中傷や、実家に戻ってからの行動などが、常軌を逸していたことは、まわりが感じていたことだ。実際に精神科で入院もしていた。帰宅後、実家、被害者家族双方が関係機関に、相談を繰り返していた。結局、きちんと対応していれば、事件は防げたのだろう。実際に警察関係者もそのように認めていたようだ。
 最初の入院は、措置入院である。そして、退院後、明石市で治療を受けていたが、お金が続かないということで、実家に戻った。ここらが、ポイントなのかもしれない。措置入院をずっと続けることができないのは仕方ない。しかし、犯人が治療を続けることができたら5人は死なずにすんだに違いない。対策は、おそらく、考えられているのだろうが、少なくとも相模原の事件などを見ると、まだまだなのだろう。植松被告も、措置入院していたのだが、病院の対応が不十分だったと批判されていた。
 さて、判決の変更だが、懲役になったということは、当然他の懲役囚と一緒に労働するのだろうが、それは大丈夫なのだろうか。心神耗弱を認められたのは、「妄想性障害」があり、その結果5人も殺害してしまったのだから、彼が労働しているときに、暴れるようなことはないのだろうか。そのようなことも考えてしまう。
 とにかく、どうすればいいのだろうか、今後もよく考える必要がある。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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