少年法年齢引き下げ見送りについて

 選挙年齢の18歳への引き下げにともない、様々な「成人」に関わる年齢の引き下げが検討されている。最も重要な事項である少年法の適用年齢に関して、18歳に引き下げる案での法案提出を見送ったと報道されている。
 日本の少年法は、一時世界で最も保護的であると言われ、右派のひとたちから散々攻撃されてきた。その後、アメリカでの厳罰化の動向に後追いする形で、日本でも多少の厳罰化が実施されている。殺人罪などの凶悪犯は、逆送致によって、大人と同様の裁判を受けさせることが可能になっている。今回の審議において、法制審議会の議論がまとまらない、つまり、政府の意向である引き下げに同意しない委員が少なくなかったということだろう。
 子どもの犯罪を罰しない、あるいは軽い処罰にするというのは、古代からみられることであるが、子どもの年齢をどこまでと見るかは、近代とは異なっていた。小学校が始まるような年齢になると、大人と同じように裁かれるような時代が長かったといえる。19世紀末から20世紀にかけて、成人年齢に達しない、つまり青年期まで含めて、犯罪者の処罰を大人よりも軽減し、更生を重視する考えかたが、アメリカで少年法として成立した。それが日本に取り入れられたわけである。ニューディール派のかなり理想主義的な少年法が、戦後改革によって導入されたので、非常に保護的なものだったわけだ。
 しかし、アメリカは1970年代以後、少年犯罪の凶悪化に対応するとして、次第に厳罰化の傾向を強め、殺人罪などを大人の刑事裁判で裁く道を大きく開いていった。そして、その結果、凶悪犯罪が減ったのではなく、却って増加してしまったことは、よく知られている。その後、少年犯罪が減少していったが、それは経済状態の改善が原因と考えられている。少なくとも、厳罰化によって犯罪を減らすことは難しいことがわかってきたのである。そして、それには、合理的に判断できる理由があった。私は、teen court という、少年が少年を裁くダイバージョン・プログラムを研究したことがあるが、teen court 自体が、厳罰化による犯罪増加に対応するために考案されたシステムなのである。
 日本でも同じだが、少年の犯罪を家庭裁判所(アメリカでは青少年裁判所とも言われる)で裁くときと、地方裁判所で裁くときには、裁判にかける「資源」がまったく異なる。家庭裁判所なら、警察の取り調べの調書を少年が認めれば、とくに弁護人がつくわけでもなく、比較的簡単な審理で少年院送致とか、その他の措置を決めていく。しかし、通常の刑事訴訟であれば、まず警察が入念に証拠を集め、検察が調べて、長期にわたる裁判が行われる。弁護士もつくのが普通だから、そうした費用もかかる。つまり、訴訟への資源の集中が起きることになる。
 少年犯罪は、軽い犯罪の初犯少年が多数いる。そして、そのなかの何人かが犯罪者として「成長」していって、凶悪犯罪を犯すようになるのだ。だから、少年犯罪を増やさない、減少させるためには、軽い犯罪をしている段階の少年を、しっかり教育して更生させることが必要なのである。そこに資源を投入しないと、放置されて、より深刻な犯罪を行っていくようになる。少年犯罪の厳罰化を実施すると、警察資源を特定の凶悪犯罪に集中し、軽い犯罪者への対応が極めておろそかになってしまう。そうして、少年犯罪者の「成長」現象が起きたのが、アメリカの厳罰化の結果なのである。
 そうしたことに、なんとか対策をというので、考えだされたのが、teen courtである。ほとんどがボランティアで、実際に裁く検察、弁護士役を、講習を受けて認定された少年が行う。つまり、警察に頼らないわけだ。しかし、家庭裁判所のような簡単な審理ではなく、かなり本格的な裁判を行い、同年齢のひとたちから罰を言い渡す。ただ、全体として修復的司法を取り入れる運営がなされているので、まだ軽い初犯の犯罪少年の矯正教育的意味もこめられている。そして、teen courtは、自ら選択するわけだが、判決で言い渡された行為を完全に期日内に実行すれば、犯罪記録が抹消され、前科がつかない。その結果、teen courtで裁かれた少年の再犯率が顕著に低いという数値に表れている。
 さて、今回の改正の内容に則して考えよう。
 年齢の問題だが、アメリカでも成人年齢と、少年法による保護年齢とは必ずしも一致していない。州によって異なるようだが、18歳の州もあるが、21歳という州もある。現実的に考えてみれば、成人になったからといって、社会的に自立する人は、現在では少数であろう。大学やその他の高等教育、専門教育の進学率を考えれば、多数はまだ教育を受けており、経済的に親に依存している人が多いと考えてよい。選挙権が18歳、あるいは、今後民法上の成人が18歳になったとしても、犯罪に関わる保護年齢は、成人後にずれ込んでも構わないし、また、その方がおそらく犯罪を全体として減少させていく上で効果的ではないかと思われる。
 他に問題となっている「氏名公表」については、私は原則として、大人の犯罪に関しても、匿名主義が適切であると考えているので、現行を変える必要はないと思う。被害者が明示されて、加害者が明示されないのはおかしい、というのは確かにそうで、被害者も匿名にすべきなのである。国民には「知る権利」があるという主張もある。しかし、ある犯罪に個人的に関わっている人の氏名を知る事が、憲法的な意味での「知る権利」だとは思わない。そもそも知るといっても、メディアが報道するということであって、メディアに個人名を報道する「義務」があるとはいえないだろう。そして、例えば、北海道であった犯罪の加害者、被害者の氏名を、関東の人が知ったからといって、どのようなメリットがあるのか。報道された側のデメリットははっきりしている。犯罪者は、デメリットがあっても仕方ないという考えもあるが、通常は家族も大きなデメリットを受ける。被害者はいうまでもない。だから、犯罪報道は、事実関係を報道すればいいのであって、そこに付随する固有名詞は事件の本質に関係ないのだ。
 結論としては、先送りに賛成であり、更に現在の方針による改訂はやめたほうがよいということだ。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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