今日は、大学での最後の活動である「最終講義」をやってきた。通常の授業の枠とは別に、特別の「最終講義」というのは、どういう習慣であるのかわからないが、多くの定年退職する大学教師は、これを行うようだ。私が強く意識している歴史的最終講義は、矢内原忠雄のものだ。矢内原は、軍部批判をした論文が非難されて、東大教授を辞任せざるをえなくなるわけだが、受け持っている講義が結局、途中で停止されることになる。その最後の講義が、「最終講義」と言われていて、多くのひとたちに語り継がれている。多くの慣習的な最終講義は、こうした普段の講義の最後ではなく、特別のテーマで行う。
数日前に書いたが、「大学の教育活動でめざしたこと」という題で行った。
いろいろあるが、大学の講義で目指したことは、とにかく、学生に勉強させることだった。そのために、「予習をさせる」「講義でも議論する」「講義あと毎回何か小論文的なものを書かせる」というサイクルをつくった。そのために、その時々の利用可能な機材、メディアを最大限使ってきたと思う。最初は印刷、それもプリントから製本されたテキスト、そして、ホームページ上のPDFファイルというように、「予習の教材」を提示してきた。
ほとんどの学生は知らないのだが、大学の1単位というのは、1時間の講義に対して、2時間の自習をして、それを15回行うことと、法で決まっている。2単位の授業のためには、毎週4時間の自習が必要なのだ。もちろん、今の学生にそんなことを要求しても無理である。たくさん授業をとっているし、サークル、バイトなどで忙しい。家庭学習をほとんどしない大学生は、統計上はめずらしくないのだ。しかし、教授としては、家庭学習をしなくてもいいというような前提での授業をすべきではない。かといって、毎週授業ごとの4時間の家庭学習を要求するのも、非現実的だろう。そういうなかで、どのように、家庭学習をさせるか。最低限、絶対的に要求できるのは、やはり、成績に直結することだろう。私の場合、それは、授業後、毎回小論文を書くということで、少しでも家庭学習をさせようとした。
大学はレジャーランドなどと言われてきたが、それは、今でもそうなのだろうか。私の大学は、まじめに勉強する学生が多いように思われる。それは、採用試験がある職業を選択する学生が多いからだが、課題を出す、それも提出しなければならない課題としてだせば、学生はかなり時間をさいて勉強するものだ。それは、成績と結びついていると真剣さが増すということでもある。予習を成績に結びつけることはかなり難しいが、授業後の課題は簡単にできる。ただし、その課題を学生が真剣にやるかどうかは、やはり、教師の姿勢に関わっている。単に課題をださせるだけではなく、教師はそれをきちんとチェックして、授業でコメントするなり、学生の努力に対応する教師側の努力も求められる。