大学で獲得すべき知的能力とは何だろうか

 最後の授業を終わり、あとは、「最終講義」を残すのみとなった。今回は、「最終講義」で話す柱となる内容を考えるために書いてみる。考えながらなので、とりとめない書き方になる。
 題名は「**大学の教育活動でめざしたこと」ということで、私は専門が教育学なので、教育活動自体が、専門の実践という側面をもっている。「最終講義」には定型はないのだろうが、多くは、自分がやってきた研究活動の総括などをする。私の狭義の専門領域はヨーロッパの学校制度だが、やはり、基本は「教育とは何か」にある。教育という行為には、必ず価値的な対象がある。そして、具体的な対象は、ある領域の知識であったり、あるいは技能・技術であったりする。しかし、単に専門領域の知識を与えることを意図して、教育活動をしている大学の教師はあまりいないはずである。やはり、知識を獲得するとともに、あるいは知識を獲得することによって、より、高いレベルの知的能力の獲得を目指しているはずである。私の「最終講義」は、その目指してきた知的能力とは何か、それをどのような方法で目指したのか、その結果はどうだったのかという点に焦点を当てて考えることを意図して行う。
 教育学の概論的な講義をするというのは、他の専門領域とは異なる面がある。教育学でも、より専門的な講義とも違う。何が違うかというと、教育学の概論で教えることなど、学生は既にほとんど知っているということだ。知っていることを、普通の教え方をしても、まるで魅力がないものになってしまう。学生がほとんど知っているといっても、それは経験的な知識である。日本の教育は画一的であるといっても、実は、学校によってかなりの相違がある。となりの学校の教育方針がかなり違うことも、実は珍しくないのだ。教育実習にかかわって知ったことだが、東京のある区のA小学校は、7割くらいが中学受験するが、同じ区のB小学校では1割もいないという。中学受験が7割いるクラスと、1割しかいないクラスでは、学習の雰囲気が相当異なってくる。また、保護者の意識も違う。中学でいえば、全員部活制が徹底している学校と、部活をしない選択が容認されている学校とは、様々な面で異なる。単なる部活の雰囲気だけではなく、教育全体の様子に違いがでてくるのが普通である。校則などもみても、いまだに、下着の色なども含めて、服装に対する細かなルールを定めている学校と、かなり自由な学校とでは、校則以外の側面でも違いがあるだろう。
 このような具体的な経験を出し合うことで、経験的に形成してきた自分の知識とその基盤にたつ価値観とを、相対化し、何がいいのか、と考えることを始める。しかし、自分の経験を出し合うということは、それほど簡単ではない。日本の学校教育では、年齢が高くなるにつれて、発言することが少なくなる。それは何故なのか。
 日本の教育が正解主義であるから、間違えると嫌だということで、発言しなくなるという説がある。
 また、小さいころは、質問されると、自分は知っていることを誇示したい、あるいは聞いている先生に教えてあげたいと、素直に発言するが、だんだん教師は「知っていて質問している」ことがわかってきて、自分たちが試されていることを自覚し、発言意欲を失っていくという説もある。ただ、どちらも「知識を問うている」ということを理由にしている。
 確かに、学生たちの模擬授業を見ていると、いかに、「発問」が知識の確認にしかなっていないかがわかる。ずっとそうした授業を受けてきたのだろうと推測できる。だから、学生たちの発言を引き出すためには、正解を求めない質問であることが有効である。
 実際の授業から引用してみよう。2014年「教育学」の「授業実践」のテーマで、篠ノ井旭高校の実践『教育は死なず』を素材にした授業である。
 ベビーブームが過ぎて、子どもが激減したとき、この高校では応募が極端に減り、廃校の危機に陥った。そこで、散るなら「理想的な教育」をしようと、次の原則をたて。
1 授業公開の原則
2 自主的な教科研究
3 個々の生徒に応じた到達目標の設定
4 学力別クラス(ただし、生徒自身が選択)
 そこで、1の原則についての賛否を問う。重要なのは、この学校では公開原則でやったが、もちろん、反対意見もあるだろう、とどちらの見解も成立することを、確認して意見を求める。そうすると、挙手をする学生は少なくない。以下やり取りをみてみよう。

学生 自分は、この方法に賛成です。まず2、3、4もそうなんですが、生徒が考えるというのがいいと思います。一般的なものと違って、生徒一人一人に対して先生が考えさせられる授業だと思うので、先生が授業に対して、熱心にしなければならないということで、教員の質を高めるという意味でも効果があると思うので、市民が見にくるというのも、教員側としては、授業に対して、適当にやってはいけないというで、セキュリティということで、問題があるとは思うんですけど、生徒によりよい授業ということと、教員の意識を高めるということで、いいと思います。
太田 なるほど。つまり、いいかげんな授業をやってはいけないという姿勢を強く打ち出しているということですね。この時代はセキュリティということは問題になっていなかったのですが、今やろうとしたら、セキュリティの問題を考えざるをえないですよね。
学生 地域の公開というのは、おかしいと思います。もともとは、生徒のストレスをなくそうということから発していると思うのですけど、地域の人が、誰かわからない人が来るわけですから、それがストレスになってまずいのではないか。自分の経験からみても、授業参観などは、授業への集中力が落ちますし、そういう意味で、学力を延ばすというときに、毎日地域の人が来るというのは、賛成できないです。
太田 授業ができないというストレスをのぞくために、授業を理解できるように始めたのに、市民がやってきたら、かえってストレスになってしまうではないか、ということですね。
学生 学力別編制についてですが、自分の学力がどの程度かということを生徒が自分で判断してしまうと、そのクラスにはいって、勉強するとき、本当にできるはずだったのに、自分はこの程度だったのか、と思うと、この程度で自分は満足だというように、向上心がなくなってしまうと思います。
太田 自分ができるはずだと思えば、上に行けばいいわけですよね。それはどうでしょう。
学生 でも、クラスの雰囲気とかもあると思うので、そこに慣れてしまうと、そこにいたいとか思って、やはり、いろんな学力の人がクラスにいた方が、上にいきたいとか思う人もでてくると思うので、その方がいいと思います。
太田 基本的にクラス編制は、いろいろな能力の人がいて多様性があるほうがいい、という基本的な考えがあって、能力別で自分が選ぶというと、自分の本心で選べないような状況が生じる危険があるということですか?
学生 はい。

 こうした問題設定をしていくと、学生はかなり活発に発言をする。しかし、そこで活発な意見交換がなされるには、やはり、条件が必要である。
 ここでは、最初に両方の見解が出ているが、再反論の見解はでておらず、他の項目に移ってしまっている。こうしたことは、頻繁に起きた。つまり、議論の粘着性がなかなか生じないのである。反論を続けていって、少しずつ新しい論点が出てくる。そのなかで、ある種の共通認識が確認されるとともに、それでも対立する理由も明確になるような議論は、なかなか難しいし、ほとんど実現できなかったような気がする。
 それは何故だろうか。(続く)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です