ネルソンスのニューイヤーコンサート

 恒例のニューイヤーコンサートを聴いた。
 初登場のネルソンスが独特の服装で指揮をして、ときに踊るように、また、わずかな指先だけの合図を送ったり、はたまたオケに委ねたり、多様な指揮ぶりを見せてくれた。最初のインタビューで10年間のウィーンフィルとの仕事があったので、練習などがやりやすかったと語っていたように、相互の信頼が深いことが感じられた。ラトビア出身だから、ウィーン音楽をバックボーンに育った人ではない。ウィーンの民族音楽ともいうべきウィンナワルツを指揮することは、決してやさしくないが、小沢とは違って、ウィーン流にやろうとする姿勢が明確だったように思う。小沢は、ウィーン方言ともいうべき慣習は、ほとんど無視して、楽譜に書いてあるとおりにやるのだという指揮をして、ウィーンフィルを怒らせてしまったが、若いころから国際的に活躍しているし、また、なんといってもヨーロッパ出身なので、小沢とは違うのだろう。(ウィーン以外にいけば、小沢流は多数派だが)
 しかし、それでも、やはり、違和感が感じられるところが散見された。ウィンナワルツには、ふたつの独特の要素があることはよく知られている。ひとつは3拍子のリズムの刻み方と、もうひとつは、テンポのとり方だ。ウィーンフィルを振っている以上、リズムはオケに任せてしまえばいいので、だれが指揮しても、リズムはウィーン風に演奏される。問題はテンポだ。ウィンナワルツは、ABあるいはABAでまとまったワルツが、いくつか接続されるかたちになっている。そして、新しいAに入るときに、テンポを緩めて、少しずつ速くしていく。これは、実際に踊るための音楽だから、新しい部分に入ったときに、踊り手が少しゆっくりのテンポから入るほうがスムーズだからできた習慣だろう。
 民族的音楽、例えばフィンランドのフィンランディアとか、ハンガリーのハンガリー狂詩曲、ルーマニアのルーマニア狂詩曲など、その国の演奏家がやるより、外国人が演奏したときのほうが、味付けが濃いのが普通だ。本場の演奏は、意外とあっさり系が多いのだ。それは民俗音楽の特色を、外国人は、ことさら意識せざるをえない結果なのだろう。
 今回念のために、オーストリア生粋の音楽家二人、ボスコフスキーとカラヤンのワルツを聴きなおしてみた。カラヤンは、出身はザルツブルグだが、ウィーンで学び、一時のトラブルはあったが、生涯ウィーンの活動を重視していたし、晩年ベルリンと対立してしまったときには、ウィーンフィルとの演奏を中心にしていた。1987年に唯一、ニューイヤーコンサートに出演した。ワルツだけを聴いてみたが、すべて、新しく入るワルツの「入り」はごくあっさりとしており、多少遅くしている程度だ。今回のネルソンスとの共通の曲は存在しなかったので、ボスコフスキーの演奏と比較してみた。「レモンの花咲くところ」と「もろびと、手をとり」の2曲。ボスコフスキーのは、ウィーンフィルを振ったウィンナワルツ集のCD。(デッカ)
 ネルソンスは、「レモンの花咲くところ」で、第一ワルツが始まるところを極端に遅く演奏させている。そして徐々に速めるのだが、最初が非常に遅いので、途中でアクセルを踏んで急に速くなる感じになっている。この部分は繰り返されるのだが、繰り返しのときも同じ様な感じだ。ボスコフスキーは同じ部分を、もちろん「入り」は遅いのだが、ネルソンスのように、極端に遅くはしない。だから、その後のスピードアップが漸進的に行われ、スムーズだ。
 だからといって、ボスコフスキーが正しいのだから、ネルソンスは間違っているなどというつもりは、もちろん全くない。解釈は多様であるし、また、民族的な特質が、インターナショナルになるに従って薄れていき、逆にそのことによって、違う魅力ができてくることもある。カルロス・クライバーの演奏はその代表例だろう。クライバーは、ヨハン・シュトラウスの音楽は、必ずしもウィーン風に演奏する必要はないと考えていたようだ。ウィーンのローカル音楽ではなく、もっと普遍的な古典と考えていたのだろう。クライバーの指揮したニューイヤーコンサートは、ウィーンでも高く評価されていたが、ウィーンフィルのメンバーは若干の違和感も感じていたらしい。ある日本の音楽評論家が、ウィーンフィルのメンバーに、クライバーのニューイヤーコンサートに感激したといったところ、「お前はボスコフスキーを聴いたことがあるのか」と逆に質問され、「ある」と答えたところ、「それならいよい」とうなづいたというのだ。20世紀では、まだウィーンフィルも、ウィンナワルツの方言性に拘っていたのだろう。
 しかし、昨年も感じたのだが、今のウィーンフィルはメンバーが相当入れ代わり、以前のように、ウィーンで学んだ人だけが入れるという制限は取り払っており、ウィーンフィルの音質にあっているなら、外国人でも可となっているという。だから、ネルソンスのような演奏に、積極的に応じているのではないかと感じた。
 だが、「もろびと、手をとり」のほうは、ネルソンスの演奏も、それほど極端なテンポの動かし方をしておらず、ボスコフスキーの演奏とあまり大きな違いはない。これは、この曲で、バレエが踊られていたからなのかもしれない。ウィンナワルツの慣習も、踊りからくるわけで、踊りにあわせるときには、やはりそれらしくならざるをえないのだろう。だから、踊りを前提とせず、「聴かせる」演奏となると、表現の枠が拡大していくのだと考えられる。
 今年の放送でもうひとつ気になったことがある。これは今までもそうだったのだが、改めて感じたのは、5.1chで録音されていることだ。今NHKのクラシック音楽番組のライブ録画は、多くが5.1chになっている。しかし、我が家ではこのシステムになっていないので、当然2chで聴くことになる。しかし、クラシック音楽を聴くのに、5.1chが必要なのだろうか。映画やゲームには、非常に有効であることは理解できる。演奏会場では、確かに、楽器の音は壁に反響しているわけだが、特別に後ろから聞こえるわけではない。そもそも、後ろのスピーカーの音は、どうやって決めているのだろう。会場の後ろにマイクがセッティングされているわけではないようだし。
 HNKで録画したものを2chの音声と映像でみるとき、何となく音の密度が低い感じがするのだ。それで、ひとつのソフトに2chと5.1chの両方を含んでいるもので比較をしてみた。5.1chで設定しても、システムは2chで聴く。ひとつはティーレマン指揮の「ワルキューレ」(ザルツブルグ復活祭音楽祭のライブ、もうひとつは、バイグレ指揮の「ばらの騎士」(メトロポリタンのライブ)。前者ではあまり違いは感じなかったが、後者では、やはり、2ch設定のほうが音の密度を感じた。もちろん、あくまで2chのシステムでの話だ。システムそのものを5.1chにすれば、当然もっと密度の濃い音になるのだろうが、やはり、わざわざそうする気持ちにはなれない。クラシック音楽で後ろから音が聞こえるというのは、どう考えても不自然だからだ。部屋が音で満たされるという感じなのかも知れないが、それもあまりリアリティを感じない。目でみている以上、音は前から聞こえてくるものだからだ。
 5.1chの放送のときには、副音声で2chが流れるという説明もあったので、明日再放送があるはずだから、それで録画してみようと思っている。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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