思い出深い演奏会2

 昨日の続きで、思い出深い演奏会第二弾です。
 以前facebookで、友人と好きな指揮者の話になり、彼がフルトヴェングラー・ムラビンスキー・カルロス=クライバーという名前をあげたので、ずいぶん通だなあと感心し、対応した感じであげれば、私はワルター・カラヤン・アバドになる。彼が「精神派」とすれば、私は「感覚派」ということになるだろうか。非精神派といってもいい。音楽の演奏が、何か精神的な思考や思想を表現しているというのが、精神派で、フルトヴェングラーファンはだいたいそうだ。そして、たいていアンチカラヤンである。非精神派は、音楽は音楽で、思想とは関係ないというの考えで、純粋に音楽的な美を重んじるわけだ。ワルターは、私が高校生のときに死んでしまって、もちろん日本には一度も来ていないので、実演を聞く機会をもった日本人は、極めて少ないのだが、カラヤンとアバドは何度もきた。カラヤンは2度演奏会で聴いたが、会場が普門館という、音楽ホールではなく、何か宗教的な会場らしいのだが、とにかく広大なホールで、音が分散してしまい、あまり、ベルリンフィル・カラヤンの醍醐味を味わうことはできなかった。とても残念だ。そのときの曲目は、ベートーヴェンの1番と3番、そして、2日目が第九だった。第九は最前列だったので、カラヤンの指揮姿をよく見ることができないはよかった。カラヤンの指揮はさっぱりわからないと、アンチのひとたちはよくいったものだが、第九は音大の学生が合唱で多数出ていたのだが、不安なく歌っていたから、わかりにくいことはないのだろうと感じた。この一連のベートーヴェン全曲演奏は、CDにもなっているので、もう少し安くなったら購入しようかと思っている。
 さて、アバドだが、一流外国人演奏家のなかでは、アバドを一番多く聴いている。ベルリンのフィルハーモニという本場で一度、ロンドン交響楽団の来日公演、そして、ミラノスカラ座のオペラ、ウィーンのオペラ。ベルリンでは、ムソルグスキーの合唱曲と「はげ山の一夜」の原典版、アルバン・ベルクのバイリオン協奏曲(ムローバ独奏)、コリオラン序曲という曲目だった。舞台の真横で、演奏者の前のほうしか見えない席だったので、あまり聴き込む感じがしなかった。アバドのムソルグスキー好きは、よくわかった。オランダ滞在中に、ベルリン旅行に出かけて、当日券4枚購入して聴けたこと自体が、びっくりという感じだった。3日いて、他に市立歌劇場で「カルメン」、国立歌劇場で「魔笛」という、夢のようなベルリン滞在だった。
 音楽と無関係だが、ベルリンでは、極めて意外な体験をしたので書いておきたい。ベルリンの動物園にいったのだが、大蛇の部屋に鶏の死骸が散乱しているのだ。羽などもあちこちにある。血のあとなどもある。蛇は生きた動物しか食べないので、餌の鶏を生きたまま、放り込むのだ。日本人にとってはかなり残酷な感じがするのだが、自然界の営みをそのまま見せるという意識なのだろう。日本では、夜に餌を与えて、客が入ってくる前に死骸を片づけてしまう。だから、大蛇の部屋はいつもきれいになっている。動物園のあり方でも、こんなに違うのかと驚いた。尤も、今でもベルリンの動物園が同じように死骸を見せているかどうかは、わからない。
 日本で聴いたアバドは、ロンドン響では、ラベルの「ラ・ヴァルス」とマーラーの5番の交響曲だった。双方よかったが、特にマーラーに感心した。マーラーは、本当にそういったのか確信はないのだが、「ハーモニーなどは存在しない、あるのは対位法だけだ」という言葉が非常に有名だ。つまり、メロディーラインがひとつあって、伴奏がつく、という曲づくりを避けた作曲家だった。様々な声部が、まるで独立しているように進行するようにつくられている。しかし、それまで聴いたマーラーの演奏は、やはり主なメロディーを浮き立たせ、従のメロディーは伴奏的に演奏されるものが多かった。たぶん今でも多いと思う。しかし、アバドのこのときの演奏は、はっきりと各声部が独立して聞こえた。おそらく、席がすごく前のほうだったせいもあるかも知れない。前にいくほど、オーケストラの音は各楽器が分離して聞こえる。
 スカラ座の引っ越し公演では、「シモン・ボッカネグラ」を聴いた。このときには、他にクライバーの「ボエーム」も聴くことができた。このふたつの公演には、ミレッラ・フレーニが出演していたので、選んだこともある。そして、ふたつとも、フレーニのCDをもって、愛聴していたから、録音と実演の声の質を確認することができた。会場は両方とも、東京文化会館。シモン・ボッカネグラでは、席が比較的後ろのほうで中央だった。おそらく、最も響きがよいところとされる一角である。ここで聴くフレーニの声は、ほとんどCD(主な演奏はほとんど同じで、指揮はアバド)で聴く声質と同じだった。細いけれども芯のある、極めて美しい声だ。クライバーの「ボエーム」のときは、席が前のほうで、フレーニの声はまったく違うように聞こえた。CDで聴くフレーニは、いつでも直ぐにフレーニとわかる声だが、このときは、もっと太いというか、ふくよかな、包み込むような感じだった。CDはカラヤン指揮のベルリンフィルという違いはあるが、やはり座席の違いが声の違いとなって表れたと思う。そして、「ボエーム」でのふくよかな声のほうが断然魅力的だったし、有名な「私の名はミミ」は、本当に胸が熱くなるような感動的な歌唱だった。フレーニは、戦後最高のミミ歌いであり、今後ともフレーニほど、見事にミミを歌う歌手は現われないと思うので、フレーニのミミを、しかもクライバーの指揮で聴くことができたのは、本当に忘れがたい思い出だ。
 アバドのもうひとつは、ウィーンの引っ越し公演で、「フィガロの結婚」と「ボリス・ゴドノフ」だった。アバドのフィガロは、映像バージョンが断然素晴らしく、LDで市販されていたのだが、DVDとしては発売されていない。これが本当に不満だ。後に、CDとして録音されたが、演奏としては、LDの新演出の当初のものが生き生きとしていて聞き応えがある。CDは、アバドの体調が悪くなっていたのではないかと思ってしまうの。アバドは、癌になって、ベルリンフィルとの契約を延長しなかったのだが、手術前の数年間の録音は、どこかかったるい感じがするものが少なくない。特に、ポリーニとのベートーヴェンのピアノ協奏曲全集は、ふたりの演奏としては、勢いが欠けている。
 アバドは、ウィーンのオペラの音楽監督だったにもかかわらず、どうも不遇感があった。特に、総監督がヴェヒターに交代してからは、アバドの意向が無視されることが多かったようだ。このフィガロは、国立歌劇場でのレパートリーにはならず、別会場で公演を続け、東京公演に大道具小道具を運んで公演したあと、廃棄すると読んだ記憶がある。そして、このミラー演出が非常に優れているのだ。(ミラー演出での演奏は、メータ指揮でDVDが出ている)この演出を見るまでは、どうしても理解できない場面があったのだが、ミラー演出で完全に納得できた部分がある。それは、4幕の出だしで、バルバリーナが封筒をとめるピンを探していて、それを見つける。だから、当然夜だとしても明かりがあるはずだ。そのあと、すべての出場者が入り乱れて、しかも、真っ暗だから、誰だかわからず、伯爵がスザンナと夫人を勘違いしてとっちめられるという大団円になる。この明るい場面とまっくらな場面が同一の幕で演じられるのが、実に不自然なのだ。ミラー演出はこれを舞台の回転で解決する。やってみれば実に単純なのだが、最初は明かりがともっている玄関先で、バルバリーナがピンをみつけると、舞台が回転して、真っ暗な庭園になるというしかけだ。この回転は、一幕と二幕の展開でも使われていて、一幕が終わると舞台が回転しながらフィガロとスザンナが歩いていて、やがて、伯爵夫人の部屋になり、そのまま歩いていたスザンナが夫人の部屋に入っていくという演出になっている。最近のオペラの演出は、とにかく読み替えと舞台装置の簡略化が目立ち、原作の話がすっかり変わってしまうことが少なくないのだが、このミラー演出は、原作に忠実であるだけではなく、その欠点も補っている点で、秀逸だ。(以下続く)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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