指揮者のマリス・ヤンソンス氏が亡くなったという。まだ76歳ということなので、指揮者としては、まだまだこれから絶対的巨匠の道を歩むのだと思っていたので、ショックを受けた。私は、ヤンソンスの演奏をそれほど多く聴いているわけではないし、特別なファンでもないのだが、なんといっても、世界の代表的な指揮者であるし、日本にも何度も来ている。
私が一番熱心に視聴したヤンソンスの映像は、若手指揮者に対する公開レッスンだ。短いレッスン風景の映像は、たくさんあり、小沢征爾などのもあるが、ヤンソンスのは、長時間の、文字通り公開レッスンそのものを映像化する目的で撮影されたようなもので、確か、舞台裏のレッスンを受けるひとたちの動向なども、たくさん写していた記憶がある。
指揮の公開レッスンというのは、見ていて非常に面白い。そもそも、指揮を教えるってどういうことなのだろうか、と考えてしまうものが多い。通常、まず、レッスンを受ける若い指揮者(受講生としよう)が、指揮をする。もちろん、選ばれた人たちだから、まずいわけではないし、ちゃんとオーケストラはついていく。しかし、当然というべきか、レッスンを与える人、つまり有名な指揮者からすると、いろいろと欠点がある。だから、受講生に聞いたり、再度演奏させたりするが、たいていの場合、指導者たる有名指揮者が、自分で指揮をして、オーケストラに演奏させる。そうすると、確かに、有名指揮者が指揮した演奏のときのほうが、立派に聞こえる。ヤンソンスの指導では、ヤンソンスが、こうやればいいんだよ、と最初は説明するのだが、どうしても我慢できなくなって、自分で指揮をしてしまう、つまり、こうやればいいんだ、というわけだ。しかし、これで、伝わるのかなと、何となく疑問に思えてしまう。
指揮者というのは、音楽を解釈し、それをオーケストラに伝えるのが仕事だ。従って、解釈そのものが、チェックされるし、また、その伝えるテクニックもチェックされる。こうした公開レッスンでは、このふたつの要素が、明確に区分されて教えられている感じがしないのだ。
だが、より強く疑問を感じるのだが、結局、指揮者とオーケストラというのは、「尊敬の念」でずいぶんと変わってしまうものなのだ。
例えば、若手指揮者は、一生懸命大きな動作をして、やりたい音楽を伝えようとする。しかし、ヤンソンスは、そんな大げさにしなくても大丈夫、こうやればいいんだ、といって、もっと小さな動作で実際に指揮をしてみせる。すると、確かに、小さな動作でもオーケストラは表情豊かに演奏する。バレンボイムの指導のときにも、そういう場面があった。
しかし、じゃ、やってごらん、と言われて、若手指揮者が、小さな動作で指揮をしてうまくいくかというと、必ずしもそうではない。偉大な指揮者が、オケの前にたつと、それだけでオーケストラは、普段よりいい演奏をしてしまうものなのだ。そういうカリスマ的要素が、指揮者には必要だし、実際に効果がある。それに、若手指揮者は、そのオーケストラの前にたつのが、普通初めてだが、指揮者にとっては、常任指揮者として普段指揮しているのだから、お互いに勝手がわかっている。公開レッスンでは、こうした、解釈、テクニック、尊敬、という要素が絡み合っていることは、よくわかるし、ヤンソンスは、教えることに熱心だが、効果的に教えているかは、どうかなあと思いつつ見ていた。ただ、もう一度見直してみたいと思う。
ヤンソンスへの関心は、これまでは、彼の演奏よりも、親子で優れた指揮者だということだった。何度か、クラシック音楽とスポーツの世界は、親子で世界のトップクラスになるのは、極めて難しいと書いてきた。それは、特別な才能と、本当に厳しい鍛練・練習が必要だからである。クラシック音楽の世界では、クライバー親子、ヤンソンス親子、ヤルビ親子が、ともに世界のトップクラスといえる。面白いのは、いずれも指揮者だということだ。なぜ指揮者だと可能なのか。それはおそらく、ピアニストやバイオリニストに求められるテクニックの高度差と厳密さに対して、指揮者のテクニックは、かなりアバウトなものだということに原因があるのではないか。この点は、また別の機会に考えてみたい。
ヤンソンス死去をきっかけに、少し聴いてみようと思い、ブラームスの2番の1楽章を聴いてみた。バイエルン放送交響楽団がルツェルン音楽祭に出演したときの映像だ。けっこう思い入れの強い演奏で、コーダではかなりテンポを揺らして、ここまでやるかという感じだったのが意外だった。客観派、楽譜忠実派なのかと勝手に思っていたのだが、もう少しいろいろと聴いてみたい。