ナチスの政策とヒトラーユーゲント

 録画しておいた「ヒトラーユーゲント」に関するドキュメンタリー番組を見た。まだ前編だけだが、ダイアモンド・オンラインに、村田孔明氏が、舛添要一氏の『ヒトラーの招待』の紹介をしつつ、舛添氏への取材記事を書いている。偶然だが、ヒトラーに対する関心の高まりを感じる。私自身、博士論文のごく一部として、ナチスの教育政策とヒトラーユーゲントについて、研究したことがある。おそらく、ヒトラーユーゲントは、ナチスの政策が、最も成功した領域だったといえる。もちろん悪い意味での成功だが。https://diamond.jp/articles/-/221931
 ドキュメンタリー番組は、ヒトラーユーゲントで活動していたひとたちが、インタビューに応じる形で進行する。とにかく、徹底的に、ナチスの考えを吹き込まれる一方、活動を通して、確かに喜びを与えていた。特に、大戦が始まる前の段階では、ほとんどの少年たちが、疑問ももたずに、ヒトラーユーゲントの活動にのめり込んでいた。19世紀末ころから、ヨーロッパでは、青年運動が活発になり、ボーイスカウトやワンダーフォーゲルなどの青年組織と活動が盛んに行われていた。ナチスも、そうしたひとつとして、かなり早くからヒトラーユーゲントを組織し、当初は極めて少ない人数だったが、ナチスが政権をとってからは、参加が義務になる。
 おかしさで印象的なインタビューがあった。その人はユダヤ人であることを隠して、ヒトラーユーゲントに参加していた。ユダヤ人であることがわかれば、当然強制収容所に送り込まれて、子どもは殺されてしまう。正確には知らされていないとしても、ユダヤ人が酷い扱いを受けていることは、分かっている。だから、君はユダヤ人かと、指導者に聞かれたときも、否定して活動をしていたわけである。人種についての講義が行われているときに、彼が立つように言われた。いよいよユダヤ人であることが分かってしまうのだと恐れた。疑われると、否定しても、ズボンを下ろされ、割礼をしているかどうかを調べるようなことをしていたようだ。そうされたら暴行されると恐れていたのだが、教師は、彼の顔のさまざまな寸法を計測して、やがて、「みなさい、この人は、典型的なバルト系アーリア人だ」と言われたのだそうだ。教師のいいかげんさに救われ、戦後にも生き延びることができたわけだが、こうして、ユダヤ人であることを隠して、いやいやでも、ナチスの活動に参加していた人たちがいたわけだ。ユダヤ人とは何か、というのは、大きなテーマであるが、いいかげんであることがこれでわかる。
 戦争が始まると、当初は、勝利に継ぐ勝利だったから、子どもたちは、自分たちが兵隊になる前に戦争が終わってしまって、戦争に参加できないのではないかという不安をもっていたという。軍人たちですら、ヒトラーの魔力に圧倒されていたのだから当然であるが、やがてヒトラーユーゲントのひとたちのなかにも、不満が醸成されていった。学校で学ぶなどということは圧倒的に少なくなり、子どもであっても労働を強制されていた。しかし、そういう状況であっても、最後まで純粋にヒトラーに忠誠心をもっていたのもヒトラーユーゲントの子どもたちであり、ベルリンが攻め込まれた状況で、ヒトラーを守ろうとする部隊を構成していたのは、彼らだったのだそうだ。
 ヒトラーユーゲントで、子どもたちをナチスの駒として育てるためにとられた方式は、充分に反面教師として理解しておくべきである。
 「子どもたちこそ未来を作るのだ」と教え込まれ、励まされるが、それは他方で、親たちを信頼するなというメッセージでもあった。反ナチ的なことを家庭で話している親を、子どもが密告することも少なくなかったのである。
 ファシズムの最も大きな特徴は、「均整化」(グライヒシャルトゥング)であるというのは、かなり共通の認識になっているが、ヒトラーユーゲントは徹底して、均整化を実行している。まずは、制服を着用させた。ドキュメンタリーでは、制服を着ることが、非常に大きな喜びであったと語られていた。もちろん、制服は支給である。そして、すべての活動は、「集団活動」として行われた。主に、援農、スポーツ、集会への参加である。
 援農は共同の農作業をしながら、「土」に触れさせることで、愛国心を醸成することが期待された。集会は、完全にマスにして、個性を消去させるものだった。これは、ヒトラーユーゲントだけではなく、大人に対しても同様の効果を期待していた。大きな集会が常に全体主義であるとは、もちろんいえないが、ナチスのやり方は、熱狂的な演説とそれに熱狂的に応えさせることで、思考を麻痺させることが、意図されていた。
 ヒトラーユーゲントの最大の目的は、子どものころから将来の兵隊を訓練することだった。そのために、スポーツが多いに活用された。インタビューでは、スポーツが得意な子どもはよかったが、苦手な子どもは徹底的にいじめられたと語っていた。
 このように書いていくと、日本の教育は、極めてファシズム的な要素に満ちていることがわかる。考えなければならないのは、舛添氏がナチスに関心をもった最初のきっかけにかかわってくる。舛添氏は、高校生だった1965年公開の『サウンド・オブ・ミュージック』を見て感動し、ヒトラーが憎くてしょうがなくなった。しかし、30歳でミュンヘンに留学していたころ、下宿のおばさんが、ヒトラーの時代が一番よかったとさんざん言われたというのである。そのギャップをずっと感じていて、ナチス研究を続けてきたという。しかし、ヒトラーの時代といっても、戦争が始まる前の時代に限定されているはずである。連合軍の反撃が始まり、ドイツ中の都市が爆撃され、文字通り、軍隊に攻め込まれて政権が崩壊し、無政府状態になってしまうわけだから、そういう時代のことが、除かれた「記憶」だろう。舛添氏が30代というと、ヨーロッパは石油ショックからまだ立ち直らず、60年代に大量に入ってきた外国人労働者がドイツに住み着くようになり、まだまだ豊かなドイツに成長していったわけではないころだから、ヒトラーの時代に、フォルクスワーゲンをもてるようになったひとたちが、昔を懐かしむのも無理はない。
 しかし、ナチスが「民主主義のなかから出てきた」というのは、厳密にいえば正しくない。ナチスは突撃隊や親衛隊という疑似軍隊を養成し、彼らが徹底的に社会民主党や共産党の活動家や支持者を暴力的に圧迫することで、選挙に勝利したのであって、その方法は最初から反民主主義的だった。
 後編を見て、続きを書く。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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