音楽録音の音づくりを考える ブルーノ・ワルターのCD

 多くの人は、自分の音楽的感性を、最初に聴き込んだ人の演奏によって形成するのではないか。またクラシック音楽では、同じ曲でも多数の演奏があるが、好きな演奏は、多くがやはり最初に繰り返し聴いた演奏である。私の場合は、ブルーノ・ワルターだった。ブルーノ・ワルターといっても、知らない人が多いと思うが、1960年に亡くなった指揮者で、ユダヤ人であったために、ヨーロッパからアメリカに亡命して、戦後なんどか演奏旅行にヨーロッパに出かけたが、ずっとアメリカに住んで活動した。アルトゥール・ニキシュが亡くなったとき、ベルリン・フィルの地位を継ぐのはワルターだと言われたのに、フルトヴェングラーに決まったのだが、これは、フルトヴェングラーがかなり裏で工作をした結果だと言われている。ミュンヘンのオペラの音楽監督も、ナチの信奉者であったクナッパーツブッシュによって追われたと言われているので、政治的感覚はほとんどなかった、純粋芸術家だったのだろう。戦前最も優れたワーグナー指揮者であったが、バイロイトには一度も登場していない。ユダヤ人であったことがもちろんその理由だが、さすがにバイロイト側も、ワルターを無視することはできず、リストの娘であり、ワーグナーの妻だったコジマが、ワルターを招いて面接のようなものをしたときがある。そのときコジマが、ヴェルディのオペラをどう思うか、と質問し、当然のように、ヴェルディは素晴らしい作曲家だとワルターは答えたが、ヴェルディを好きな指揮者など、バイロイトには不要だ、とそのまま呼ばれることなく、ワルターはアメリカに去った。もちろん、ヴェルディを高く評価しているから呼ばれなかったわけではない。その証拠に、ヴェルディを神のように尊敬していたトスカニーニは、何度かバイロイトで指揮をしている。このトスカニーニ、フルトヴェングラー、ワルターを20世紀前半期の三大指揮者と、通常呼んでいる。
 私は、小さいころから、ワルターのレコードで音楽を聴くようになって、現在でもワルターファンである。演奏の特徴等は別の機会にして、今日、ワルターの旧コロンビアに録音したすべてを集めたコンプリートが届いたので、レコードとCDについて考えてみた。

 さて、今の若い人は、ほとんど知らないはずであるが、CDの前はレコードと呼ばれた33センチある盤に刻まれた、音を波化した溝を針でトレースして音を出すメディアが使われていた。もちろん、アナログである。それがデジタルで記録されるCDに切り替わったのだが、特に、切り替わった時期から、相当経った時点でも、CDは音が悪いという評価が定着していた。CDはソニーとフィリップスが共同開発したまったく新しい音声記録方式であるが、音の波を数値に置き換え、音を数値化し記録する、そして、数値を読み取って再び音に変換するという原理だった。しかし、その際、人間に聞こえない周波数の音は、高い方も低い方も切り捨てることになった。だから、アナログレコードは、実際に聞こえなくても鳴っているが、デジタルのCDは、そもそも音として鳴っていないことにしてしまうわけだから、そのことによって、音質が低下するのだという「見解」が多数の人によって主張された。そして、その「被害」を最もうけた演奏家が、ワルターだったといえる。
 デジタル録音がアナログから転換して、非常に早くアナログ録音は消えてしまった。デジタル録音して、CDとして発売される場合には、もともとその音で登場するが、ワルターの場合には、アナログレコードがたくさん売れていて、その音が多くのファンに染み込んでいた。CDが登場すると、当然、アナログ録音は、テープからデジタル化されて、CDとして再発売されることになる。すると、レコードの音になじんでいたファンから、CDの音に対する不満が爆発したのである。特にそれが顕著に表れたのがワルターの録音だった。これは、ワルターという指揮者が置かれた立場が影響していると考えられる。
 20世紀前半の三大指揮者は、いずれも録音に熱心であり、多くの録音を残したが、ステレオが登場するまで活動を続け、多くの優れたステレオ録音を残したのは、ワルターのみだった。あとの二人は、モノラル録音の時代に死去し、しかも、現代の水準からすれば、非常に悪い録音でしかなかった。元々が悪い音でしか記録されていないのだから、CDになった音が悪くても、それほど気にならなかった。しかし、ワルターはステレオで録音したから、鮮明な録音が残されていた。しかし、カラヤンのような20世紀後半の指揮者と違うのは、デジタル録音が登場したときには、既にいなかったという点である。
 ここで、録音の音とレコードやCDとして市販され、スピーカーから流れる音とは、まったく違うことを確認しておく必要がある。演奏会に足繁く通っている人であれば、充分にわかることだが、クラシック音楽の演奏会では、聴く席によって、音がかなり違う。ポピュラー系では、スピーカーを通して音を聴くので、席による違いはほとんどない。しかし、クラシックの場合は、マイクもスピーカーも使わないから、音源の位置と、会場の位置によって、音が変わる。オーケストラの場合、舞台上であっても、楽器によって、聴いている音はまったく違うのだ。そして、舞台上で演奏者が聴いている音と、客席で聴いている音もまた、相当違う。簡単にいえば、舞台上の音は、生の音であり、客席では、さまざまなところに反響して、混ざり合った音になる。そして、舞台上では、特に指揮者からは、音は分離して聞こえる。
 では、録音された音はどうなのか。これは、マイクのセッティングによって、全く違ってくる。技術者が一番好むのは、各楽器の前にマイクをたてて、個別の音をとり、あとで、音量や反響効果を調整して、全体としての音を作り上げる方式である。逆に、全体がまとまった音として聞こえる空間的位置を探り出して、そこにマイクをおき、ひとつのマイクで録音する方式もある。しかし、その方式は、マイクが格段に高い性能になってからのもので、ワルターが生きていたころは、マルチマイクで録音していた。
 マルチマイクでの録音は、ではどのような音なのか。それは、客席で聴く音ではなく、反響する前の生の音となる。楽器の前にマイクをおくのだから当然であろう。それは何を意味するのか。つまり、録音された音は、客席で聴く音ではないということだ。レコードにする際に、その生の音を加工して、客席で聴くような音に作り替えるのである。しかし、どのような音として聞こえるのがよいのかは、エンジニアによって異なる。だから、同じオーケストラの同じ曲でも、レコード会社によって、音がかなり違ったりする。各レコード会社には、そうした音のポリシーがあって、生の音を調整して製品化していたのである。
 しかし、CDになったときには、全く違うエンジニアが製品を作ることになるから、アナログレコードを作る際のポリシーや技術は、引き継がれなかったに違いないのである。もちろん、現役の演奏家に関しては、製品化されるまでに、音のチェックをするから、調整された音に対して意見をいうことができる。だから、もともとデジタル録音して、CDが制作された場合には、齟齬はおきない。だが、ワルターの場合には、優れた「生」の音で録音されたものがあり、CD化するときには、デジタルのエンジニア、つまり、それまでの音の加工についてはまったく無縁だった人がCDの音を作ったのである。だから、それまでのレコードとはまったく違う印象をあたえた。生の音は、すっぴんであり、製品化されたレコードは化粧していたのである。それが、ワルターのCDをきいた人は、これまで美しい化粧をしていた人が、突然すっぴんで現われた姿をみてしまったような状況になる。CDは音が悪いという非難を、最もうけたのが、ワルターのものだったというのは、いろいろな事情が重なったためである。
 さて、死後60年近くたって、やっと、ソニーから、旧コロンビアで録音したすべてのものが集められたコンプリート集がやっと発売された。そして、発売前には、少なくともステレオ録音されたものについては、マスターテープから、リマスターしたと宣伝されている。その製品が今日やっと届いたのである。早速部分的に聴き比べをしたわけだ。
 評判が悪かった初期のCD、比較的評判のよかった韓国ソニーの製品のワルター選集、そして、今回のリマスターしたコンプリートを、ベートーヴェン「田園」の一楽章の提示部、モーツァルトの「ジュピター」の一楽章の提示部、ブラームスの2番のはじめの部分で比較してみた。
 以前のワルターのCDへの批判は、音が生であること、特に高音が目立って、低音を重視するドイツ系指揮者であるワルターの音とは違うのではないかということだった。そして、事前の宣伝では、リマスターは低音をこれまでより強調し、ワルターが本来求めていた響きに近くなるように努力したということだった。
 結果は、確かに雰囲気的には変わって聞こえる。低音が多少明瞭になったことによって、更に中音域が充実しているように響いている。そして、そのことによって、高音のきつさが消えて、全体に溶け込むような感じになっている。同じテープを使っているのだから、全然違う音に聞こえるわけではなく、印象としては、柔らかい響きになった感じはする。もっとも、今回リマスター作業をしたエンジニアが、ワルターの演奏を実際にきいたことがあるわけではないだろうから、これが、本当の響きであるかは不明である。また、実際の常設のオーケストラではなく、録音用に編成されたオケなので、弦楽器の人数が、適正であったかどうかは、ずっと議論がある。
 もう少し聴き込んで、実際の音と録音された音との相違など、更に考えてみたい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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