大学入学共通テスト 記述式問題はやめるべき

 以前にも書いたが、最近いろいろな団体が、大学入学共通テストの記述式問題をやめるべきだという主張をしているので、同意の意味で、何故やめるべきなのか、詳しく書いてみる。
 試行テストで、記述式の問題が出ているが、はっきりいって、記述式としての意味をなしていない。通常の解釈問題で、選択肢から選ぶ問題とさして違いがないのだ。こんな問題を「記述式がある」という触れ込みのみの意味しかもたない一方、膨大な採点業務が発生し、しかも、公平な採点がなされのかという不安もつきまとうようなテストになる。積極的な意味を見いだすほうが困難だろう。
 入試センターが実施する試験において、記述式問題をいれるべきでない理由は主にふたつある。
 第一に、誰もが考える採点上の困難さである。50万人もの受験生がいるわけだから、50万枚の答案を採点する必要がある。まず採点の準備段階として、採点者の共通理解をもたらすために、講習会が開かれるだろう。センター試験の「監督者」の講習というのがあるのだが、これは完全に義務で、通常の監督とリスニングの監督業務を両方うけると、3時間程度の説明をうける必要がある。それでも、事故があり、毎年新聞で、不適切な取り扱いがあったと報道されてしまう。この講習は、当日の監督の手順の説明であり、実際には、極めて詳細な監督マニュアルがあり、行動や読み上げる「台詞」など、すべてが書いてあり、その通りにやればいいのだから、不適切な扱いをした事故は、マニュアルに書かれていたことを実行しなかっただけのことなのである。マニュアル通りにやれば、問題は発生しないようにできている。にもかかわらず事故が起きる。
 採点となれば、全く事情が違う。どんなに詳細な採点基準を作成していても、正答らしいが、当初の予想には載っていなかった解答が出てくる可能性がある。また、明確な基準があったとしても、その通りではない採点をしてしまう人がでてくる可能性は大きい。だから、説明会がかなり詳細にわたって行われるだろうが、パターン化された行動のマニュアルではないのだから、説明そのものが、会場によって異なってしまう可能性だってある。こういう場合はどうするのか、というような質問が出てくるだろうから、それに回答するのだが、人によって違う回答がなされる可能性がある。完全に一カ所に集めて説明会が行われるならば、そうした相違は起きないが、そもそも、説明をみんながきちんと聞いているか、あるいは、それを正確に記憶していて、その通りにやるかという問題もある。
 だいたい、一人何人分くらいの採点をするのかわからないが、試行テストの問題でいうと、字数は少ないので、(120字程度)500枚は可能だとしよう。かなりきついと思うが。すると、ひとつの問題について1000人で、4問くらいあるわけだから、4000人ということになる。問題ごとに別で構わないが、1000人一緒にやるとすれば、かなりムラが生じる。つまり、正確に伝わらない部分がそうとう出てくるはずである。
 それから、だれが採点するのかという「不安」もあるだろう。共通一次やセンター試験は、完全にコンピュータ採点だから、そういう不安はなかった。うわさによると、学生などもアルバイトで採点業務に活用されるらしい。
 いつ説明会を行うのか、そういうことは当然秘密だからわからないが、事前に行うことを前提に漏れる不安を指摘する人がいるが、私はそれはないと考えている。採点基準等は、おそらく試験後に集まって、採点をする際に行われる可能性が高い。だから、事前に漏れることはないだろうが、そうすると、複数の採点会場での説明になるので、ばらつきは起きてくるだろう。

 反対する理由の第二は、前にも書いたが、記述式問題は、それぞれの大学、学部、学科によって、求めるものが違うはずであるという点だ。生物学科で入学してくる学生に求める学力や資質と、哲学科で、あるいは、芸術学部で求めるものは、相当に違うはずである。本当にしっかりした記述式の問題を課すとしたら、それは個別の大学、学部で実施すべきものなのである。
 記述式の問題を入学試験で課すことは、私は非常に重要であると思う。日本の大学が、国際的に低い評価になっているのは、大学入試のあり方もひとつの原因である。ヨーロッパでの試験は、だいたいが高校卒業資格試験によるが、例えば、ドイツのアビトゥアなどでは、数時間かけて、膨大な量の論述問題がでる。数学なども、すべて自分で記述する方式である。アメリカでは、個別の入学試験を行うことはないが、SATなどの全国試験の他に、かなりの分量のレポートを提出させる。自己アピールや活動歴などを数枚書いて提出するのである。特に有名私立大学では、このレポートが大きな意味をもつ。
 日本で、かつて大学入試が完全に個別の大学によって行われていた時代、試験問題が記述式でだされることは、それほど珍しくなかった。特に国立大学では、普通に記述式問題が大量に含まれていたはずである。
 そうした記述式の問題で、毎年優れた問題をだすと評価されていたのが、東大である。国語や数学だけではなく、理科・社会・英語でも、かなりの分量の記述式、あるいは小論文的な内容の問題がだされていた。私は、最近のそうした事情をまったくフォローしていないので、現在どうなっているかはわからないが、おそらく、二次試験で記述式問題がだされているだろう。
 ところが、マスコミは、多くの場合、東大の入試のやり方を批判していた。それは、足切りをしているからである。足切りをして、受験機会を奪うのは不平等であるというのである。それなら、入学試験で不合格にするのも不平等ということになってしまう。何故足切りをするのか。それは、本当に知的レベルを試験できる問題にするためには、採点量を制限しなければならない。現職の教員で採点するのだから、採点できる枚数には限度がある。だから、足切りをするのである。いろいろなスポーツで、大きな大会では、予選があって、そのあとに決勝戦がある。予選で負けた人が決勝戦に出られないのは、不平等だなどという人がいるだろうか。
 入学試験で大事なことは、いい問題をだすことだ。受験生は過去の問題をみて、勉強をする。だから、だされた問題が悪い問題だと、いい勉強をしない。教員採用試験の小論文などが典型的なものだ。あれは、本当に受験生の知的水準をみているのではなく、公式の見解にそってかけるかをみているとしか思えない。だから、論文を書く行為は、非常に知的なものなのだが、教員採用試験の準備では、そうした知的能力を磨くような勉強をしないのである。ある他学部の同僚が、そうした試験も意味があると「形式を守ることが大事なんだ」と言っていた。形式を守ることと思考することは全く違う。
 きちんと知的水準が反映されるような問題を作ることは、実は難しい。そして、当然採点も大変だ。だからこそ、自分たちの専門分野で求められる基礎的な知的な能力を測る、そういう問題を専門領域の教員が作成して採点する必要がある。
 このようなことから、50万人の受験生に対して、共通の記述式問題などは、まったく意味がないだけではなく、害すらあるというべきである。 
 この試験制度の変更も、教育再生実行会議の提言がきっかけになっているようだが、入学試験全体を、ひとつのシステム、しかも国家的管理の下で行うことに無理がある。もっと大学の自主性を尊重すべきだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です