「桜を見る会」の私物化論 各社説は不十分だ

 安倍首相が、「桜を見る会」に後援会のひとたちを大量に招待していたことが、問題となり、安倍首相の判断で、次回は中止ということになった。公金を使い、公的な事業として行われている「桜を見る会」に、それぞれの枠があるとはいえ、それをはるかに超えた人数、自分の後援会の人を呼ぶというのは、明らかに「私物化」であり、違法行為である疑いが濃いだろう。多くの新聞も社説で、そういう主張を展開している。それはそれで正しい。
 しかし、やめればよいのか。私は、むしろ、あのように簡単にやめてしまうことにこそ、安倍晋三という人の公的なことがらを、私的にしか考えない政治家としての資質が現われていると思っている。後援会の人をたくさん呼ぶことは、公的な行事を私的な利益のために利用するという意味で、私物化であるが、批判を受けるとやめてしまうということは、公的な「桜を見る会」を自分のものだと思っているという意味での「私物化」なのである。どちらかといえば、こちらの私物化のほうが、ずっと問題が大きい。「桜を見る会」なるものを、公的な行事として行うことの是非は検討の余地がある。私自身は、花見など嫌いだし、そもそも「桜」という花があまり好きではない。だから、多額の税金を使って、花見をするというのは、やめてほしいと、納税者として思う。しかし、実際に行われてきた「桜を見る会」は、吉田首相が始めて、自民党以外の政党が政権をとったときにも実施されてきた、いわば戦後の伝統的な公的行事である。首相になっているから、その主催者になっているわけだが、やめるならば、これだけ継続してきた会だから、当然それなりの議論の末、やめるべきという意見が多ければやめるという「手続」を踏むべきものだろう。次回に関して、予算の請求はしているはずである。つまり、政府としては、継続して行うということを公表してきたに等しい。それを自分の後援会優遇がばれて、政治的にまずい状態になったからといって、会そのものを中止するというのは、それが完全に自分の意志でどう扱ってもよいという意識の発露だ。つまり、その会は「自分の物」だと思っているからできることだ。これこそが、私物化以外の何物でもないだろう。
 批判者が求めたことは、会の中止ではなく、運営の明朗さである。自分の後援会の特別優遇をしたわけではないことを、記録を提出することによって、証明することである。招待客の名簿提出を求めらて、個人情報だという拒否と、破棄してしまったという理由の拒否を二重に述べた。公金を使用して、招待を受けた人だから、プライバシーの領域ではない。また、こうした記録を官庁が破棄することは、常識的に考えられない。これまでも、安倍内閣においては、破棄したはずの記録が、実はあった、とあとで出てくることは何度もあった。官庁とは記録によって仕事をするのだから、記録を破棄することは原則としてないのである。ださない理由は、私物化がばれるから以外の理由は考えられない。いくつかの社説が、やめることを決めたことが、ますます私物化していたことを示していると書いていたが、その通りだろう。
 税金=公金を使った行事であるから、公的行事である。では、「公」とは何だろうか。時代や国によって意味が異なるが、共通点は、おそらく、「明らかであること」だろう。小学館の日本語大辞典でもそのような意味が示されている。他方、日本では、かつて「公儀」という言い方があり、それが後の時代にも感覚的に継続してきた。つまり、権力、あるいは政府のことという意識である。しかし、権力は、あまり「明らか」な状態を好まない。「よらしめむべし、しらしむべからず」という、愚民政策(本来の意味は異なるようだが)こそが、専制政治の特質である。だから、「明らかであること」という「公」の原則的意味と、「公儀」は両立しない。両立するのは、民主主義社会においてである。現在の「民主主義」の徹底度の指標は、「透明性」である。透明性の国別ランクを毎年公表している組織がスイスにあるが、残念ながら日本は上位ではない。つまり、日本の民主主義の程度は高くないというのが、国際的評価なのだ。特に安倍内閣になって、低下した。森友問題や加計問題での政府資料の扱いかたなどをみれば、そうした評価が不当とはいえないことがわかるだろう。そして、「桜を見る会」に関して、安倍内閣がとっている姿勢も、明らかにすべき事実を隠すことに徹している。よほど不都合なことがあるのだろう。決して、後援会を優遇しただけのことではないに違いない。

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