「普通に死ぬ」のもなかなか難しい

 ブログでは、個人的な事情はできるだけ抑制しているが、今回は、あまりない経験をしたので、考えてみた。
 かなり前に『病院で死ぬということ』という本がかなりのベストセラーになった。癌患者を扱う医師が、病院で亡くなる場合の不条理さをなんとか克服しようとする一方、そのなかでも人間的な関係が築かれていく様が描かれていたと記憶する。もちろん、多くの人たちは、自分の家で家族に見送られながらの最期を希望しているに違いない。しかし、現実には、そうした在宅での看取りは、極めて難しいのが実状である。それは、決して、家族の状況などによるのではなく、むしろ、「死」に関するシステムから来る側面が強いのだと感じている。
 10年くらい前に、私の義母が亡くなった。10年間ほど認知症になり、自宅と週3日程度の施設を往復する生活を続け、最後の半年くらいは、ずっと在宅であった。まだ意識が明確であったころから、最後は家でと望んでいたので、できるだけその希望をかなえようと、妻が中心となって、在宅介護を充実させていた。往診してくれる医師も見つけ、当初は診療所まで出かけたが、最後の半年は、家まできてくれた。その間、どのように最期を迎えるかを、何度も相談したのだが、在宅で看取るのは、考えるほど簡単ではないのだと、医師から何度も聞かされたわけである。
 通常、在宅で過ごしていても、病気が危ない状態になれば、救急車を呼んで、救命医療を施すことになる。その甲斐もなく、亡くなった場合には、救命医療を施した医師が死亡の診断を行う。もちろん、入院して亡くなる場合には、医師がずっと管理しているわけだから、問題はない。
 在宅で最期を迎えるということは、救急車を呼ばないわけだ。問題になるのは、末期、あるいは危篤の患者に延命措置を行うかどうかという点だ。厳密に線引きすることはできないかも知れないが、胃瘻や人工心肺装置などによる延命措置は、生前意識がはっきりしているときの明確な意思表示があれば、それをしない選択が可能である。その医師から説明されたことは、延命措置をしないで、自然な形で最期を迎えたいのであれば、救急車は呼ばない、直ぐに医師(その人)を呼ぶことを何度も確認された。救急車を呼ぶと、延命措置が自動的にとられるか、あるいは救急車がきたときに既に死亡していると、警察沙汰になると言われたのである。それで、私たちも、当人と何度も意思確認を行い、妻が中心となって、医師、訪問看護士、ヘルパーの協力で、在宅での介護を継続していた。そして、いよいよ最期だと思われたときには、訪問看護士、そして医師が直ぐに駆けつけてくれて、医師の責任において、死亡の診断がなされた。つまり、在宅での看取りができた。
 しかし、ごく最近、私の父が亡くなったときには、このようにはいかなかった。父は、施設に入っており、私たち夫婦が訪問していたのだが、90代半ばになり、寝たきりとなっていたので、今後のことを話し合った。施設での看取りを望み、延命措置はしないと、施設の医師と本人、家族を交えて確認し、記録にものこした。担当の職員もそれを承知していた。
 高齢者にありがちな嚥下障害があり、痰が絡まることが多かった。そのためか、肺炎と考えられる高熱を発し、医師の治療を受けた。翌日私たちが訪れたときには、かなり熱も下がり、状態も落ち着いていたので、しばらく話したあと帰宅した。そして、真夜中に電話がなり、ケアマネから様態の悪化が告げられ、次の電話で、救急救命士から心臓マッサージをしているが、救急病院にするかどうかの確認をとられ、事前に確認していたように延命措置はしない旨告げると、次の電話で、病院に駆けつけるように言われた。真夜中の高速を飛ばして病院に駆けつけると、警察に遺体が運ばれているので、警察署にいくように言われ、警察署にいくと、検死中であり、施設で調べているので施設にいくように指示された。実に大変な目にあってしまった。午前3時を過ぎていた。施設には、警察官が数名と普段世話になっているケアマネの方がきていて、さまざまなことが質問された。私たち夫婦の一日の行動なども確認されたし、前日の父とのやりとりなどを聞かれた。父は耳が遠いので、私たちは紙に書いたものを見せながら、コミュニケーションをしていたので、その紙などを見せると、一枚一枚写真に撮っていた。つまり「変死」扱いになっていたわけだ。警察官の説明によると、病院に入院しているなかで死を迎え、担当の医師が死亡を確認した場合は、問題ないが、それ以外は原則として「変死」扱いになるのです、と言われた。幸い、父の入っていた施設は、非常に雰囲気のいいところで、職員が入所者を扱う対応なども非常に丁寧で、親密感あふれたものだった。だから、警察が事件を疑っていたわけではないようだったが、とにかく、「定型な死」以外は、調査の対象になってしまうということで、職員の人たちも、また、私たちも大変な思いをすることになった。幸い、施設の家族用の部屋にとめてもらうことができて,ほんのわずかながら眠ることができたが、翌朝早く遺体の引き取り手続きに、再度警察に呼ばれた。葬儀屋さんと打ち合わせのあと、やっと帰宅できたわけである。夜中の間ずっと調査の仕事をしている警察官も、本当に大変なのだと実感させられた。
 事前に綿密に使節側とは打ち合わせていたにもかかわらず、詳細はわからないが、途中でほんの手違いが生じたのだろう。夜間の点検の際に、息のない状態であることが気づかれ、救急車が呼ばれた、病院で死亡が確認されたが、ルールによって110番されたという次第だ。医師も交えて当初確認していたことが、どこかで間違いが生じて、ある意味、無意味なエネルギーがたくさんの関係者によって費やされてしまった。
 近年虐待が疑われる施設の対応などがあり、また、家庭でも皆無ではない。そういう意味で、こうした「システム」は必要なのだろうとは思う。しかし、何か機械的に実行されると、余計なエネルギーとコストが費やされることも事実だ。そして、自然と、いよいよとなると入院し、ともすると望まない延命治療を施され、チューブにつながれることになる。
 もう少し、合理的で柔軟なシステムはないものだろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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