神戸市須磨区の教師間いじめ(再論)

 まだまだこの話題が継続している。今日(25日)のテレ朝羽鳥のモーニングショーで、詳しく扱っていて、和田中の校長として有名になった藤原和博氏がコメンテーターで出演していた。23日には、尾木直樹氏が登場していたから、多様な立場のコメンテーターが出ている。朝のテレビなので、詳細は憶えていないが、いくつか気になることがあった。
 この二日で主に話題になったのは、教育委員会と、人事のあり方だった。
 正確な数値を憶えていないのだが、500人強の教育委員会事務局人員がいて、160名程度が現場の教師だった人だということだった。ずいぶん多い印象だ。そして、現場の教師だった人は、数年教育委員会で、現場を指導する仕事をしたあとで、校長として学校現場に戻ることが多い。これは、どこでも同じような仕組みになっている。
 話題になったひとつが、神戸市教育委員会の「独立性」あるいは「独断性・排他性」だった。例えば、組体操は現在大きな問題となっているが、一切禁止の自治体も少なくない。文科省も危険なやり方はしないように指導している。しかも、神戸市長もやめるように申し入れをしたそうだ。しかし、神戸市では、組体操を継続して行い、昨年(?)50数名のけが人がでたという。テレビで紹介されていた写真は5段のピラミッドだった。こういうことに表れているような、異様な体質として、教育委員会が批判されていた。
 そして、第二に、人事権である。通常は、教育委員会が人事を決めるが、神戸市では、校長会が二重になっていて、教育長が出席する校長会(これが正規の組織らしい)と、教育長を除外した校長会の私的集まりがあるという。そして、私的集まりのほうで、校長が互いにほしい人、いらない人を相談して、それなりに融通しあいながら、教師の移動を決め、教育委員会はそれを追認する形なのだと説明されていた。だから、校長に気に入られないと、次の移動で意に沿わないことになるので、どうしても校長に対して服従せざるをえないことが、今回の事件の背景としてあったのではないかという見解だった。
 第三に、市長が、教育委員会に申し入れをするのに、無視されるという話がだされていた。その具体的事例が、前述した組体操である。
 さてこの三つを考えてみよう。
 注意しなければならないのは、組織形態と組織を構成する人とは、区別して考えなければならないという点である。そのような組織形態そのものがいけないと、直ちに結論をだすことはできない。教育委員会が、他からの意見やクレームをまったく受け付けない独善的な運営をいつでもやっているというのならば、完全に問題であるが、しかし、そうだとしても、実際の人員構成による部分も考えなければならないはずである。そして、いつでも独善的であるかどうかは、今回の件だけではわからない。組体操を現在でも実施している自治体は他にもあるのだから、神戸だけが、この点で異常とはいえない。むしろ、組体操の問題は、運動会そのもの、あるいは運動会の出し物を学年単位の全員参加で行うことの問題として、私は考えているので、教育内容に対する均一的なあり方をこそ改めるべきなのだ。やりたくない人もいるし、危険でもやりたい人がいる。それを一律に全員がやるか、まったくやらないかという形で決めるのではなく、もっと学年を広げて、やりたい人だけがやる種目にするという方法だってある。例えば、4年はソーラン節、5年創作ダンス、6年組体操となっているとしたら、その三つのどれかを、4年~6年は、選択するという方法だってあるわけだ。組体操を選んだ子どもは、自ら選んだのだから、多少の危険は厭わないだろうし、けがをしたとしても、学校に責任を問うようなこともないだろう。もちろん、しっかりと安全配慮をした指導をした場合であるが。
 私自身は、運動会そのものをやめるべきだと思っているので、そういうやり方も本意ではないが、少なくとも、組体操を勧告に反してやっていることを、教育委員会の独善性の表れとして議論するのは、一面的であるように思う。しっかりした見識をもち、開かれた上での独立性は、むしろ好ましいともいえるのである。
 第二の人事はどうだろうか。本当に校長だけで決めてしまうのか、まだ信じられない面もある。教師の移動については、校長の意見がある程度反映されることは、どこの自治体でもあることだ。だから、程度問題とも思えるが、教育委員会事務局が、まったく関与しないとすれば、確かにあってはならないといえる。神戸の校長は、よほど教師全体のことを把握しているのだろうか。また、通常は、本人の希望をまったく無視することはないはずである。自治体によって異なると思うが、だいたいひとつの学校に勤務する年数は上限が決まっているから、そこに近づいてきた教師には、ある程度の希望を申請させるものだ。神戸の場合、そういう本人の意向はどう扱われているのだろうか。番組ではわからなかった。
 神戸は政令指定都市で、市としての教員採用試験をしているので、通常の県の人事からは独立している。そこで通常の人事、つまり複数の自治体を経験する方法とは異なる面が出てくる。人事に限らず、政令指定都市の教育が、他と異なる面があることは、めずらしくない。しかし、ワイドショーやメディアの情報だけではわからないが、裏校長会で決めているということは、正式の制度ではないと解釈できる。ある種の力関係でできた慣行なのだろう。正規の組織でない限り、やはり、やめさせるべきだ。教育委員会が、断固として人事を決めればいいだけのことではないか。
 第三の市長との関係はどうだろうか。私が不思議なのは、教育委員会が市長のいうことを聞かないという点だ。教育委員は、市長が任命するのだから、通常は市長の意向を実現するように動くはずである。市長の政策に反対する委員を、市長は選ばないはずである。現在の神戸市長は2期目に入っているのだから、少なくとも一度は教育委員を選んでいるはずである。現市長によって選ばれて任命された教育委員が、市長の意向と異なること実行するというのは、非常に不思議な感じがするのである。事務局は、移動もあるし、トップである教育長は、市長の意向が反映される人事を行うことができるはずだから、これも、市長は、自らの信念を実行させることができる組織になっている。
 以上のようなことができないとしたら、何か、神戸特有の社会的背景があるのだろうか。私は完全な関東、それも首都圏しか生活経験がないので、関西のことはよくわからないが、神戸というと、いくつかのイメージがある。まずは、芦屋のような裕福な人々が生活しているイメージ。宝塚のような、独特な文化のイメージ。山口組の本拠がある、少々恐ろしいイメージ。同和地区が比較的多く、同和教育に取り組んでいるイメージ。灘中学高校に代表される教育熱心なイメージ。かなり多面的で、しかも独特な性格を強くもっているといえる。もちろん、他の側面もあるだろう。これらは、間接的には、教育現場に影響する要因である。だから、「制度」の問題もあるが、むしろ、人の運用の問題として表れていると感じられる。市長や教育長のリーダーシップ、保護者の前向きの批判、メディアの興味本位ではない取り上げ、などを積み重ねることで、運用を変えていくことが、何よりも必要であると思われる。ただ、裏校長会が人事を決めているのが本当であるすれば、それは教育委員会が勇気をもってはね付ける必要があるだろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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