大分前のことになるが、いろいろと話題のN国関連の裁判を取り上げたい。毎日新聞20189.9.26に、「N国市議敗訴で注目『スラップ訴訟』って何?立花党首『相手にダメージ』公言」という記事がある。記事の最後には、識者が画期的と評価していると書かれているから今更であるが、やはり、非常に優れた判決であるので、書いておきたい。
訴訟は、N国の東京都立川市議久保田学氏が、フリーライター石渡智大氏を名誉毀損で訴えたのに対して、訴えられたライター石渡氏が反訴していたものだ。つまり、石渡氏は、市議に当選した久保田氏が、居住実績がないとする記事を書いたのに対して、名誉毀損として200万の賠償を求めたわけだ。それに対して、石渡氏は、スラップ訴訟だとして反訴、120万の賠償を求めたという、双方が相手を訴える訴訟を起こしていたわけだ。
反訴というのは、あまり知られていないが、民事訴訟は、一方的に原告がある人に「権利を侵された」として、提訴するものだが、まったく権利など侵していないのに、そうした訴訟を起こすのは、嫌がらせであると考えたとき、被告側は、相手に対して、不当な提訴であるという訴えをすることができる。それを反訴という。つまり、民事訴訟の乱用に対する、訴えられる側の対抗措置である。刑事的な告訴をされたとき、それがあまりに不当だと感じる場合には、誣告罪の訴えをすることができるのと対応している。
日本の裁判制度では、ある裁判が、裁判に値するものかどうか、値しないにもかかわらず、不当に裁判を起こしているのではないかという、事前のチェックを裁判所は原則としてしない。よほどおかしな訴えの場合に、裁判所が受け付けないことはあるかも知れないが、ほとんどの場合は、手続や形式が整っていれば、そのまま訴訟になってしまう。刑事訴訟の場合には、とりあえず、警察が証拠を固め、検察が有罪であることを確信したという事実があるが、民事訴訟の場合には、嫌がらせが通じる仕組みなのである。そして、そうした嫌がらせの訴訟は、私がみる限り非常に多いのだ。それがスラップ訴訟という。N国党首がこの訴訟を解説してくれている文が、毎日新聞に書かれている。
「 立花党首が今年5月作成の動画で「この裁判は、そもそも勝ってお金をもらいにいく裁判じゃなくて、いわゆるスラップ訴訟。裁判をして相手に経済的ダメージを与えるための裁判の事をスラップ訴訟というんですよ」などと発言した」
相手に経済的ダメージを与えるために、裁判を起こすというのだから、本当にたちが悪い政治家だ。語るに落ちるというべきだ。また、多少性質が異なるともいえるが、政治家が不祥事をメディア、とくに週刊誌などに書かれると、訴訟恫喝をしたり、実際に訴訟を起こす場合が少なくない。片山さつき氏の文藝春秋社を訴えたのはその事例だ。しかも、この場合、国会での質問を「訴訟中だからいえない」と回答拒否していたから、訴訟圧力だけではなく、疑惑追及を裁判を利用して封じるという二重の意味で悪質だった。
政治家は、国民への発信手段をたくさんもっている。そして、選挙で選ばれた以上、国民に対する説明責任を負っている。ジャーナリズムの批判に対しては、説明すれば済むことである。批判が間違っているならば、その批判が間違っていることを、事実をもって反証すればよい。そして、そうすれば、その政治家の評価は高まり、批判したジャーナリストの評価が落ちるだけのことだ。訴訟に持ち込めば、もちろん、反論しなければならないが、公開とはいえ、裁判内容が広く知られるわけではない。民事は、刑事と違って、裁判のなかで、証人をたてて、やりとりをするなどということは滅多になく、単に陳述書を交換しながら進行する。だから、実は、かなり密室で進行するのであり、「説明責任」を果たすようなものではないのだ。
もし、批判が正しく、批判された政治家が反証できないのであれば、潔く指摘を認めるべきなのである。アメリカでは、公人に対する批判記事に対して、訴訟での名誉棄損を認めることは、原則ないというが、日本もそのようにすべきである。
政治家は、国民に正当に説明できないようなことはしてはならない。そして、きちんと説明できるような行動をとっていれば、批判されることはないのだし、万が一、嫌がらせ的な誹謗をされたとしたら、事実でもって反論し、誹謗した人物を「誹謗するような人間」として社会に認めさせればよいのだ。そういう手段を、政治家はもっている。逆にいえば、だからこそ、アメリカでは、虚偽でないことであれば、強く政治家を批判する自由をメディアに与えているのである。そうした関係が確立してこそ、民主主義が機能する。政治家による訴訟恫喝や、スラップ訴訟が起きるようでは、民主主義が機能するはずがない。今の日本は、そういう面で大きな問題を抱えているといえるだろう。
千葉地裁松戸支部の判決は、そういう意味で非常に重要な意義がある。