愛知トリエンナーレの中止になっていた「表現の不自由展その後」が再開になることが決まったが、そのあともいろいろと解決できない問題があるようだ。文化庁からの補助金が拠出されないことになっており、事態はまだまだ流動的だ。そして、表現の自由、芸術の自由に関する議論も、さまざまなに出されている。
毎日新聞の9月1日付けに奥山亜喜子氏のインタビューをまとめた記事が掲載されている。氏によると、ドイツ憲法には芸術の自由が規定され、「文化政策では、支援はしても(内容には)口出しをしないのが原則」のだという。念のため、ドイツの憲法の規定をみておこう。
第5条1 何人も、言語、文書及び図面によって、自己の意見を自由に表明し流布させる権利、並びに一般にアクセス可能な情報源から妨げられることなく知る権利を有する。出版の自由、並びに放送及び映画による報道の自由は、これを保障する。検閲はこれを行わない。
2 これらの権利は、一般的法律の規定、青少年保護のための法律上の規定、及び人格的名誉権によって制限を受ける。
3 芸術及び学問、研究及び教授は、自由である。教授の自由は、憲法に対する忠誠を免除しない。(岩波文庫による)
奥村氏によると、「芸術の自由」が入っているドイツ憲法に比較して、入っていない日本国憲法は、芸術に対する配慮が低いということになるのだろうか。しかし、芸術も表現の一種であるし、出版や放送等によって表現されるわけだから、表現の自由が規定されている日本国憲法とドイツ憲法がそれほど違うようには思われない。日本国憲法には、「一切の表現の自由」と書いてあるから、そこには芸術も当然含まれていると解釈すべきだろう。
では、こうした憲法の論理で、現在の愛知トリエンナーレで起きている問題をすっきりと切ることができるのだろうか。
まず、芸術に関して、創作者が公表、つまり表現をしようと思ったときに、表現の「場」が必要となる。しかし、芸術の種類によって、その場はまったく異なる。小説であれば、自分で書いただけではなく、公表したいと考えれば、印刷して私的に配布する、あるいは出版するが、出版社と契約する場合と、自費出版とがあるだろう。自費で行う場合には、経済力がなければならないし、出版社が出してくれるには、出版社が承諾する程度の「質」が必要となるだろう。いずれにせよ、公表段階になれば、精神の自由とは異なる「条件」が出てくる。かつて、ソ連の人たちは、ブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義は異なっており、前者は単なる形式であって、お金やコネがなければ出版できないのに対して、後者は、紙や資金を労働者のために確保するので、金やコネがなくても出版が実質的にできるのだと主張した。しかし、その場合でも、紙や資金が無限にあるわけではないから、当然「選別」が行われ、出版社が、内容的に出版に値すると判断しなければ、出版は実現しないのである。もっとも、現在はインターネットが普及しているから、小説書いた人が、まったく干渉なしに、あるいは条件なしに、インターネット上に公表することはできる。出版社が、選別することは、表現の自由に反するだろうか。おそらく、反すると考える人は、まずいないだろう。
では、公的機関が、出版助成金を出すことは、どうなのだろうか。
例えば、博士論文は、公表が法的に義務となっているために、未公表で出版する必要がある場合、文科省の助成がおりることになっている。しかし、これは、義務に対するする措置であるから、問題を感じる人はほとんどいないはずである。実は、私もこの制度を利用して、博士論文を出版した。しかし、文科省の著作に対する補助金は、義務として出版するもの以外にも適用される。いわゆる科研費における出版助成である。これには、当然審査がある。著作物の出版であるから、助成金を認めるかどうかの判断で、「内容」に関わらないことはありえない。もちろん、審査は、研究者によって構成される審査委員会が行うもので、文科省の官僚がするわけではない。
今回問題になっている美術品の場合はどうだろうか。この場合、通常「ひとつの物」として存在し、ある場所(空間)に展示されることが、公表の方法となる。場所を、広い意味での作者の管理する空間、民間の管理する空間、そして公的機関が所有管理する空間と分けて考えてみよう。作者の管理する空間は、文字通り完全の自由がある。もし、それを侵すとしたら、部外者の暴力的な妨害以外ないだろう。従って、ここで考慮する必要はない。民間の管理する空間はどうだろう。これには、ニコン慰安婦写真展中止事件がある。安世鴻氏が、ニコンサロンで慰安婦の写真展を開く契約をニコンと交わしたが、在特会の抗議やネットでのニコン製品不買運動のために、ニコンが開催を拒否、安世鴻氏が、それを不当として提訴、裁判所がニコンのサロン提供の撤回は不当であるとした裁判である。これは東京のニコンサロンであるが、大阪の場合、契約そのものを拒否したので、別の場所で開催されることになった。つまり、この場合はニコン側の主張を認めたわけである。だから、東京地裁判決は、表現の自由を侵害したから、ニコンを敗訴させたのではなく、一端結んだ契約を、合理的な理由なしに破棄したことを間違っているとしたのである。つまり、ニコン側として、作品展を開催したいと申し出があったら、断ることができないという意味ではないのである。
では、公的な施設の場合はどうなのだろう。今回の愛知トリエンナーレはこの事例である。民間施設と同じなのだろうか、違うのだろうか。
「表現の不自由展その後」において、どの作品を選択するかは、「表現の不自由展」の実行委員会に任されていたという。つまり、愛知トリエンナーレの開催実行委員会は、作品の選択には関わらなかったわけである。すると、その実行委員会に任されるのかという問題は当然ある。最初に紹介した伊東氏の批判は、そこに中心点がある。全体の実行委員会が責任をもって、芸術家と交渉して、展示品として採用するかどうかを決める必要があるのに、それをせず、いってみれば、下請けにだしたような形になったために、トラブル発生が予想できたにもかかわらずそれが対応できず、作者からの引き上げなども起きてしまったというのが、伊東氏の批判のひとつである。では、全体の実行委員会が責任をもって選択していたのならば、問題は起きなかったのか。妨害は当然あったろうが、むしろ、公的機関が選別することになり、より大きな問題であるとする意見もあるだろう。しかし、当然のことだが、展示空間が無制限でない以上、選別しないことは不可能だろう。当然、選別は「内容」に関わって行われると考えざるをえないわけである。
では、奥山氏のいう「支援するが内容に口出ししない」ということは、どういうことなのだろうか。あるいは、そういうことは、本当にありうるのだろうか。次回はその点について考えたい。