矢内原忠雄と丸山真男3 戦後直後の日本精神の分析

 丸山が、突如として有名人になったのは、1946年3月に執筆し、『世界』(岩波)の5月号に掲載された「超国家主義の論理と真理」である。しかし、矢内原は、終戦からまだ間もない1945年10月に、長野県木曽福島の国民学校において行った講演「日本精神への反省」で、戦争をもたらした「日本精神」の分析を行っている。これは、11月の講演「平和国家論」と合わせて『日本精神と平和国家』と題する岩波新書として、12月に公刊されている。矢内原が東大に復帰したのは11月であるから、最初の講演はそれに先立っている。つまり、矢内原は、戦争が終了して、直ぐに自由な身分のままで、戦争をもたらした日本の精神構想の分析を行い、その対策を示していたのである。丸山は、論文の最初に、日本国民を戦争に駆り立てたイデオロギー的要因の実体について、「十分に究明されていないよう」だと書いているが、「十分」であるかどうかは、個々人の主観であり、レトリックのようだから、まだまったくなされていないと言いたかったのだろう。しかし、それはあまりフェアではないといえる。 “矢内原忠雄と丸山真男3 戦後直後の日本精神の分析” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男2 研究者としての外見

 矢内原忠雄研究の一環として、丸山真男との比較論をしばらくやることにした。単なる私自身の興味に基づくものだが、この間いろいろと考えていると、考察に値する課題がいろいろあるという感じがしてきた。
 まず研究者になる過程が、双方かなり独特である。まずそこから比較していこう。
 矢内原は、1893年(明治26年)の生まれだから、19世紀と明治を体現しているわけだが、第一高等学校入学時でも明治であり、明治の人間としての資質を感じさせる。父は医者の家系であった。教育熱心であった父が、神戸一中にいれた。その校長は、札幌農学校で新渡戸や内村と同期だった鶴崎久米一であり、この点も、後に内村の弟子になる下地になっていたと思われる。神戸一中、一高と抜群の成績トップを維持したが、大学入学にあたり母が死亡、そのショックで勉学意欲が落ちたとされるが、それでも法学部時代二位をキープしたという。一高時代どうしても矢内原に勝つことができなかった舞出長五郎が一位となった。つまり、東大法学部時代までも含めて、抜群の秀才だったわけであったが、それでもガリ勉タイプではなく、弁論部などの活動を行う、また、校長新渡戸稲造が徳富蘆花事件で辞任するにあたって、新渡戸擁護運動をリーダーでもあった。 “矢内原忠雄と丸山真男2 研究者としての外見” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男(昨日の補遺)

 「普遍の意識を欠く日本の思想」が収録されていないと書いてしまったが、実際には、16巻補遺に収録されていた。早速読んでみた。
 「いかなる地上の俗権をもこえた価値の存在は、クリスト教でいえば神に対して自分がコミットしているということになる。「人に従わんよりは神に従え」という復員の言葉はそれです。・・・どんなに俗権が強く、長い歴史をもとうとも、地上の権力を超えた絶対者・普遍者に自分が依拠ししているのだということが、抵抗権の根源であり、同時に教会自身が宗教改革を生みだした原因です。」
 「日本とヨーロッパのちがいはそこにあると考えます。宗教、つまり聖なるものの独立が人間に普遍性の意識を植えつける。そしてこの見えない権威を信じないと、見える権威に対する抵抗は生まれてこない。美佳ない権威、それは無神論者は歴史の法則と呼びますが、神と呼んでも何と呼んでもいい、そうしたものに従うことは、事実上の勝敗にかかわらず自分の方が正しいのだということで、さっき煎った普遍的なものへのコミットとはそういうことです。それが日本では弱い。」 “矢内原忠雄と丸山真男(昨日の補遺)” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男1

 二人とも、近代から現代に至る思想家としての巨人であるが、いつも私が不思議に思っていることがある。単純な私的興味に過ぎないかも知れないが、丸山真男は長い執筆活動のなかで、ただの一度も矢内原忠雄について触れていないことだ。丸山真男集の別巻に、人名索引があり、丸山真男が書いた文章のなかで触れられている名前がすべて掲載されているのだが、そこには矢内原忠雄の名前はない。矢内原忠雄は丸山よりずっと年長で、東大を追われたときに丸山はまだ助手(学部を卒業して次の年)だったのだから、矢内原が丸山真男について触れないのは不自然ではない。しかし、丸山真男は、助手になった年に、法学部と経済学部が軍部やそれにつながる教授によって攻撃されていた時期であり、矢内原事件が起きたのである。そして、戦後の丸山が、日本における戦争責任を問い続け、単に支配層だけではなく、知識人の普遍性に対する弱さや、そこからくる権力への迎合性を批判し続けた以上、戦争をまっこうから批判し、そのために東大を追われ、それでも屈することなく信念を貫いた矢内原忠雄を、まったく取り上げなかったのは、非常に不思議といえよう。矢内原は、丸山の直接の指導教官であった南原繁の次の東大総長であり、かつ、戦後の平和運動の中心的人物であり、直接の接点もあったはずである。南原は、矢内原についての文章をいくつか書いている。また、矢内原の没後、まとめられた追憶集『矢内原忠雄--信仰・学問・生涯--』(岩波書店)の編集責任者であり、「まえがき」の他、「真理の勝利者」「信仰と学問」という短文が掲載されている。しかし、丸山の文は当然ない。 “矢内原忠雄と丸山真男1” の続きを読む

矢内原忠雄「近代における宗教と民主主義」を読む(続き)

 矢内原の論を踏まえて、考えを発展させたい。
 日本国憲法の「信教の自由」条項は、私は順調に機能したと思う。しかし、かなり微妙な問題も起きている。
 戦後日本で起きた宗教に関係する最大の事件は、なんといってもオウム事件だろう。日本における戦後最大のテロ事件であるし、また、サリンを使ったという点で、世界でもそれまでに類のない事件であった。一宗教団体が、何故あのような事件を起こすことができたのか、人間としての問題と、財政的問題と両方の面でいまでも考えねばならない課題であり続けている。何故、優秀な人材が麻原のような人物に取り込まれ、あのような犯罪まで犯してしまったのかという問題は、多くの論者によって考察されてきたが、結局、真相は分からない。優秀な人物は悪いことをしないなどということは、歴史を見ても、全く成り立たない命題であるから、優秀な人材が取り込まれたこと自体は、不思議ではない。優秀な人材が社会的に適切に評価されるとも限らないことを考えれば、ある意味不遇を囲っていた人材が、才能を振るう場を与えられれば、そこにのめり込むことは、大いにありうることではないだろうか。たくさんの手記もあるが、個々の事例に関して、どのように取り込まれていったのかについては、正直あまり興味がないので、触れないことにする。私自身は、どうやって悪に入り込んでいったのかよりは、教育学者として、どのように困難を克服していったのか、その力をどうやって獲得したのかに関心がある。 “矢内原忠雄「近代における宗教と民主主義」を読む(続き)” の続きを読む

道徳教育ノート・矢内原研究ノート 矢内原の道徳教育論

 矢内原忠雄は大学教授ではあったが、教育学が専門だったわけではないので、教育について論じた文章は少ない。戦後大学運営に携わった期間が長いので、大学論はけっこうある。特に矢内原が教養学部長、総長だったときには、歴史に残るような事件が大学内で起きている。その処理原則として、「矢内原三原則」などということが、私が大学に入学したときにも、伝わっていた。もっとも、私が大学に入学したときに起きた大学紛争の結果、この「矢内原三原則」は正式に無効となったのだが。この三原則は、廃止されたことでわかるように、学生たちには非常に評判の悪いものだったが、矢内原の信念が凝縮したような要素はあった。それは、学生の学ぶ権利は、集団的な決議で侵すことはできないのだ、という信念といえよう。学生がストライキをして、授業を受けさせないために、ピケを張ったとき、学生の授業を受ける権利を侵すことは誰にもできないといって、塀の一部を破って構内にいれさせたという逸話があり、その壊れた部分が後に小さな門となった。いわゆる矢内原門である。今でもあるのだろうか。私自身も、矢内原三原則は、学生の交渉権を事実上認めない要素が強いことから、支持しないが、しかし、そこにこめられた矢内原の信念は、否定できない。 “道徳教育ノート・矢内原研究ノート 矢内原の道徳教育論” の続きを読む

矢内原ノート 東大を追われた理由

 佐藤広美氏の『植民地支配と教育学』の感想を書いたが、そこに「矢内原忠雄論をいつか書きたい」と書いたので、ぼちぼち、少しずつ書きためていこうかという気持ちになってきた。なかなか進展しないとは思うが、50年以上考えてきたことなので、今始めないとできなくなってしまう。

 そこで、最初に考えてみたいのは、やはり、矢内原忠雄の東大追放に関してである。このブログの読者は、あまり矢内原忠雄という人物を知らないと思うので、ごく簡単に紹介しておこう。
 1893年に愛媛県に生まれ、父親は医者であった。近郊で唯一の西洋医学を学んだ医者であり、貧しい人からは医療費をとらなかったという、時代劇によく出てくるような人だったらしい。
 神戸一中から一高、東大へと進み、在学中に内村鑑三の無教会派のキリスト教徒となる。既に両親が死亡していたので、兄弟の面倒を見るために、住友に入社したが、新渡戸稲造が国際連盟の事務局次長で赴任したために、その担当講座(植民政策)の後任として、東大の助教授となった。3年のヨーロッパ留学の後、教授として、次々に優れた学問的業績をあげたが、満州事変後、政治の動向に批判的となり、平和主義的な観点から時局の批判を行った。そのために、東大の教授を追われることになり、戦争が終わるまでは、キリスト教の伝道の仕事に専念する。
 戦後東大に復帰し、経済学部長、社会科学研究所長、教養学部長、総長を歴任し、1961年に没している。 “矢内原ノート 東大を追われた理由” の続きを読む