2日ジャニーズ事務所会見

 
 10月2日に、ジャニーズ事務所の記者会見が行われた。9月7日の、明らかに失敗だとされた会見の「挽回」をめざしたものだとされていたが、4日経過した現在、完全な失敗とみなされている。会見にたいする「統率」を行ってはいなかったと思われる7日で失敗したとされたので、2日の会見では、あきらかに最初から、事務所側が、あるいは運営をしきっている団体が、会見を統制しようという目論見が明確だった。都内でも第一級の豪華なホテルの会場を使ったこと、時間を明確に決めていたこと、そして、開始まえの段階で、記者の質問は「一社一問」という「ルール」を告示していたこと等である。そして、前回は明らかに会見進行という点では素人と思われる人が司会をしていたのに対して、今回は元NHKアナウンサーだった、「有名人」が会見の進行を受け持っていたことも付け加えておく必要がある。だから、会見が開始される前から、今回は「荒れる」ことが十分に予想されていた。

 ジャニーズ事務所の人々は、いま懸命に「生き残り」をかけて、悪戦苦闘していると思われる。そして、ジャニー氏の性犯罪(あえてこう書くことにする)を強く問題視して、ジャニーズ事務所の解体、あるいは解体的出直しを目論むひとたちが争っており、そこにジャニーズ事務所とタレントの活動によって利益を得ていたひとたちの勢力圏にあるひとたちが、中間にいる。中間派にももちろん幅がある。この三つ巴勢力の対決が鮮明になった記者会見であり、ジャニーズ側はなんとか生き残りをかけようと、さまざまな仕掛けを施していた会見であった。そして、当初はある程度の成功をおさめたようにみえたが、すぐに綻びも出始めて、まだ4日しか経過していないが、ジャニーズにとって不利な結果になっている。
 
 なぜこのようになったのか。また、その結果として何がおきるのか。多くの人が多様に指摘しているが、私なりに考えてみた。
 第一に、ジャニーズ事務所が、まったく新しい事態に直面しているにもかかわらず、内部の人間で対応していることもあり、これまでのやり方を踏襲していることにある。日本が戦争に敗れ、まったく新しい憲法の下で民主主義国家を構築しようとしても、それを支えた人材の多くは、旧軍事体制の人材だったのであり、一時追放されていたひとたちも、やがて「反動期」には指導層にもどっており、その象徴が、A級戦犯容疑者であった岸信介氏であった。結果として、実は戦前の体制の少なからぬ部分が戦後にも継続、あるいは復活したのである。
 ジャニーズ事務所の対応をみると、この縮小版を見せられている気がするのである。第三者委員会が提言した「同族経営」をやめることは、現時点でまったくできていない。誰が役員であるかは明示されていないが、会見に出てきている役職者、コンプライアンス担当として新しくはいった人以外は、みな従来からのジャニーズの主要メンバーである。しかも、表には出てきていないが、ジャニーズ事務所の強圧的な運用をして、メディアを従わせてきた中心人物の一人である白波瀬氏が、副社長をやめたが、嘱託職員になっており、ある報道によれば、記者会見等の対応などにも主要な役割を果たしているという。東山、伊ノ原、ジュリー氏などに、この難局をどう乗り切るか、などという力量があるとは、常識的に思えないから、やはり、これまで在籍して、実力があるとみなされる人物に、頼るというのも、成り行きとしては自然なことである。9月ではさすがに、反省色が濃かったが、10月の会見では、既に高圧的な、事務所本意の運営になっていたのは、白波瀬氏の指導によるものだったというのも、十分にありえることだろう。
 第二に、そのことの裏返しでもあるが、結局、ジャニー氏の犯罪を抑えることができず、むしろそれを隠蔽しつつ、メディアに圧力をかけることによって、勢力を拡大してきた結果として、このような状況に陥ったわけであるが、そういうことが、今後決して通用しない社会になっていることを、体質的に理解していないことによる、安直な対応で済む、と思い込んでいたということだろう。マッカーサーに、憲法草案を提示するように言われて、松本試案をもっていった、当時の支配層の感覚に似ているのではないだろうか。おそらく松本烝治は、おそらく自身の感覚では許容されると思っていたのだろうし、あるいは、許容されないとしても、それ以上の民主主義的な内容を考えることができなかったのだろう。
 2日の会見は、そうした当事者の構想力の限界を感じさせるものだった。
 さて、当日問題になったことを多少詳しく考えてみよう。
 
記者会見のルール
 
 10月2日の記者会見で大きな話題となったのは、「ルール」である。何人かの出席者たちが、指名されない状態で質問をしたり、大きな声をだし、伊ノ原氏がそれをたしなめ、拍手が起きたという事態があった。その際、伊ノ原氏は、子どももみているから、こういう大人の姿をみせるのはやめましょう、といって、子どもを引き合いにだしたことも、とくに賛否両論あった。しかし、それに抗議するひとたちもいて、かなり会場は荒れ模様になっていた。
 ルールは守りましょう、というのは一見もっともな論であるが、しかし、それは、主催者側が決めたルールであって、記者たちが納得をした上で決められたものではない。しかも、これに似たルールが、日本の記者会見では、そして、とくに政治家が質問をうける場では、質問そのものを制限するようなルールを一方的に設けて、十分な質問をさせないような「ルール」が、とくに安倍内閣移行横行するようになった。
 記者は事実を明らかにすることが目的だから、別に荒れた記者会見を望む人は、ほとんどいないはずである。十分に質問が可能で、答える側が誠実に、丁寧に質問に答えていれば、質問する側も紳士的に質問するだろう。ところが、安倍内閣においては、記者たちに真実を把握されることがこまるような状況が頻発し、次第に記者の質問を制限するようなルールをつくり始めたのである。安倍内閣は長期にわたったから、そうしたルールがある意味定着したような様相になっていた。「一人一質問、再質問は認めない」このようなルールである。これでは、知りたいことを引きだすことは、極めて難しい。困難な課題であればあるほど、回答に対する再質問が必要となるのである。
 今回のジャニーズ事務所の記者会見は、こうした質問抑圧のルールを一方的に押しつけることになった。これは明らかに、ジャニーズ事務所にとって好ましくない質問、つまり、本当のことを率直に聞くような質問であるのだが、そうした質問をさせないような工夫をしたことになる。
 更に、司会者の指名の仕方については、見ていて非常に疑問を感じた。NHKの元アナウンサーというベテランだから、十分にわかってやっていることだと感じた。具体的には、指名するときに、実にスムーズでなく、余計なことを言うのである。「こちらがわのブロックの人にしましょう。そして、まずは後ろのかたで、そこのマスクをしているかた、ええ、おふたりマスタをしていますが、グレーの服を来ているかたです、そうそう」というような感じのさし方をしている。さすがに、ネット上で、予め番号札を渡しておいて、発言したい人はその番号札をあげておけば、「*番のかた」と一言ですむではないか、という意見が多数みられた。まったくそのとおりで、実は、あの指名の仕方は、時間を稼ぐための方便だったと感じられる。とくに、前回は手をあげていた人をすべて質問させていたのに対して、(そのために4時間以上かかった)今回は最初から2時間と区切っていたから、挙手していた人でも、質問できなかった人のほうが多かったと思われる。会場も時間決めで借りていたように説明していたから、すべてが、「ルール」で質問を押さえ込む作戦だったのだろう。そういう意味では、納得しない人が不規則発言せざるをえなかったと言えるのである。ルールを守るべきだ、というひとたちは、ジャニーズのおこした問題を軽く考えているひとたちのように感じる。これが当日見ていたときの感想である。
 
NG問題
 そして、これは、4日になって、「指名NGリスト」があったのだと暴露されたことになったのである。
 つまり、2日の会見後、早くも綻びが露呈した。それは、記者の質問への対応として、おそらくジャニーズ側にとって都合のいい状態で、スムーズにことが運ぶようにという意図からであろう、記者をあらかじめ、質問させないリスト(NGリスト)と、質問させるリストを作成していたということが、NHKによって報道されたのである。そしてその前日、会見直後の3日に、「運営に携わった者」という人物から、さまざまなところにメールが寄せられ、そこにそうした事実が書かれていたのだそうだ。しかし、あまりに怪文書的な内容であったので、受けとった人は、それをそのまま信じることなく、様子を見ていたのだそうだが、NHKは、当日会場でそのリストが書かれた用紙を、撮影しており、4日の7時のニュースで流したということだ。私はその時間のニュースはみないので、ネットの情報で知った。7時のニュースではないが、NHKのニュースとしてネットに発表されたものをみてみた。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231004/k10014215471000.html で読むことができる。要点を整理すると以下のようになる。
・会場にPR会社が作製したNGリストが持ち込まれていた。(写真が写っている)座席も確認していた。
・事前の打ち合わせのさいに、このリストを見せられた事務所側は「当てないとダメ」と伝えたところ、「では、後半に当てる」とした。
・当日挙手しても当てられないと不満をいった記者たちがいて、一時騒然となった。
・NHKの報道後、ジャニーズ事務所側はリストに一切関与していないとのべ、会社は、回答できないと答えている。
 これには当然ジャニーズ側もあわてて反応して、要するに、それをやったのはFTIという、ジャニーズが契約したコンサルト会社であるので、逆にFTIk 責任を追求しているが、FTIからはアメリカの本社と連絡しなければならないので、返答には時間がかかる、と返答されたという、ほとんど信じがたいことばかりが書かれている。
 そもそも、運営を請け負った企業が、依頼主の意志を無視して、そうしたNGリストを作成するというのが、極めて不自然である。ジャニーズ側はリストの提案に対して、ネガティブに対応し、特に伊ノ原氏は、逆に絶対に当てなければだめだ、と強く主張したというのだ。そうしたら、FTIは、「では後半に指名する」と答えたというのが、ジャニーズの説明である。(この「後半に指名する」という部分は、配布先の資料にはなかった。つまり、途中で説明が変っている。)
 当日、スタッフたちがその用紙をもって運営の進行を司っていたわけであるから、当然、ジャニーズ事務所の人間もそのことを承知しているはずあり、それを許容していたことになる。もし、本当に伊ノ原氏のような考えで望んでいたのならば、チェックをした上で、スタッフたちからその用紙を取り上げるはずである。司会はその紙をもって指名しているのだから、当然わかっていたはずである。私が見る限り、東山、伊ノ原両氏が、基本的にNGリストの者を指名せず、許可リストを指名していたことを、遺憾としていたようには、思えない様子だったと思う。
 このNGリスト問題は、そういうものを作成すること自体が大問題であるが、その後の説明が、到底納得できるものでなく、また、自分の会社の記者会見であるのに、依頼した企業に責任をなすりつけるというジャニーズ事務所の体質もまた、国民の信頼を大きく踏みにじるものだったといえる。
 端的にいえば、「語るに落ちる」ということだろう。NHKによって報道されてしまったことは、当然全国に知らされたということであり、スポンサーが前向きになることは、当分ありえないだろう。
 
 
 
東山社長問題
 NG問題に対して、作成したコンサルティング会社の担当者は、以下のように説明したという。
 「担当者によると、会見前の協議の中で、長時間にわたり自説を述べたり、セカンドレイプ(二次被害)と受け止められかねない質問をする記者がいることへの懸念を同事務所と共有。「人権に配慮した進行をすべきだ」という方針を確認していた。」(読売新聞)
 つまり、事務所と合意の上だったことがわかる。そして、この「セカンドレイプ」と受とめられかねない質問というのが、おそらく、東山氏の「性加害」疑惑の追求の可能性であろう。それを避けるために、NGリストをつくったのだろうが、ただ、その思惑は実際には外れてしまった。というのは、NGリストに掲載されていた一月万冊の佐藤章氏が、かなり厳しく、その話題で追求したからである。なぜNGリストにはいっていた佐藤氏が指名されたのか、当然司会者のミスだったのだろうが、結果として、この佐藤氏の質問が、この会見の荒れのはじまりだった。
 私の理解では、佐藤氏は3つの要点を含む質問をした。
1社長の東山氏には、自身の性加害の批判がなされているが、それは事実か。
2ジャニー氏の裁判の最高裁判決が出されたとき、東山氏は38歳だったが、十分に大人であり、ジャニー氏の行為を十分に知りうる立場にあったと思うが、それをとめなかったことは、共犯、あるいは幇助の罪になるのではないか。
3こうした疑いがある以上、社長として相応しくないのではないか。
 この佐藤氏の質問に対して、東山氏が、「自分はセクハラ行為はしていない」とのべたあと、すぐに、弁護士が強引にひきとって、児童福祉法の共犯とはいえない、と「法律論」をのべて、東山氏を擁護する発言をしていた。この弁護士の横やりは、かなり唐突であり、東山氏が説明を依頼したわけでもなく、文字通り割ってはいったという感じだった。
 佐藤氏は、この会見後、一月万冊で、この件を詳しく解説していたが、弁護士は、意図的に佐藤氏の質問をねじ曲げ、しかも重要な点をスルーしたと批判していた。児童福祉法的な意味で「共犯」ではなくても、もっと一般的な意味での「共犯」のことを指摘したのだが、法律論に矮小化されたということ、そして、「共犯ではない」と主張したが、「幇助罪ではない」とはいわなかった、と強調していた。つまり、佐藤氏は、弁護士も幇助罪にはあたるかもしれないと思っているに違いない、という解釈を示していたといえる。
 そして、結局、こうした疑惑が公表されている東山氏は社長に相応しくないのではないか、という点がスルーされたというのである。佐藤氏の真意は、東山氏は社長を辞任したほうがよい、という提言だったと、私は解釈している。
 たしかに、佐藤氏の批判はあたっているが、しかし、佐藤氏の質問の仕方も、あまり上手なものではなかった。かなり非難的、感情的な言い方だったために、弁護士に引き取られてしまったと思うのである。そして、東山氏の社長適格性という、もっとも重要な論点を最後にだしたために、スルーされやすかったといえるのである。私なら次のように言ったと思う。
 「最初に結論をいいますが、私は東山氏は社長をおりるほうが、東山氏自身にとっても、また、会社にとってもいいのではないかと思うのです。というのは、東山氏は、極めて優れた俳優として、活躍していたのに、社長になったことによって、引退を余儀なくされました。これはとてもおしいと思うのです。また、社長になったことによって、過去の行為が蒸し返されています。そして、第三者委員会が強く提言した「同族経営の廃止」の内容に反しているために、そのことが強く批判されております。そうした結果として、スポンサーがどんどんおりています。つまり、東山さん自身にとっても、また事務所にとっても、東山さんが無理に社長を引き受けていることで、大きなマイナスが生じていると思わざるをえません。そこで率直にうかがいます。社長を、できるだけ速やかに、第三者に引き継ぎたいという気持ちはありますか?」
 こう質問すれば、多少展開は違ったと思う。もちろん、東山氏が「辞める」という可能性は低いだろうが、しかし、彼が社長であることは、極めてまずい人事であることは、多くの人が感じているに違いない。状況から考えて、東山氏が、現時点でみれば、多くの問題行為をしていた可能性は高く、社長である限り、ずっと繰り返し言われるに違いない。本人にとっても、会社にとっても、致命的なマイナスであることは明白だろう。
 
芸能界に対する疑問
 私自身は、いわゆる芸能界に対して、まったく興味がないので、あまりものをいう資格はないかもしれないが、なぜ、興味がないのかということも含めれば、意味があると考える。
興味をもてない最大の理由は、芸能界での活動が、能力に基づいているとは思えないということにある。かつて大宅壮一がテレビの興隆に対して、「一億総白痴化」といったことは有名だが、彼の発言から相当経った現在、ほぼ妥当するような状況になっていると思う。同じような番組が多くのチャンネルで行われ、報道番組では、本当に重要な問題が扱われなかったり、掘り下げられることなく、「強い者の味方」のような報道がくり返されている。そして、テレビ放送の多くをしめる部分で、芸能関係者が番組をつくっている。
 しかし、芸能人のなかに占める二世タレントの割合は次第に増加しているようにみえる。本当に実力がある二世タレントもいるだろうが、そうでない人も少なくない。彼等は、実力のある人物を押し退けて起用されているわけだ。なぜ、そういうことがおきるのか。それは、おそらく、日本社会の性質とも関連しているに違いない。それは、個を集団のなかに埋没させる人間集団のあり方である。日本は集団主義の社会だと言われることが多いが、私は、よい意味での集団主義は、日本では極めて脆弱だと思っている。それはスポーツで、金メダルを多くとる種目は、柔道、レスリング、体操などの個人技が競われるものであり、サッカー、ホッケー、バスケットボール、バレーボールなどは、一時的に強いことはあっても、大体においてメダルには届かない成績に留まることが多い。もし、日本社会が、真に集団主義であるならば、団体競技のほうが強いはずである。
 ただ、集団主義のよさを引きだして、チームが強くなったという例が、いくつかでてきた。それは青山学院の駅伝チーム、慶応高校の野球である。この共通性は、一人一人の個性や主体性を尊重しつつ、それを核にしながら、集団としてのまとまりをつくっている点である。つまり、一人一人違う個性や能力をもっているから、それをじっくり選手と指導者がコミュニケーションし、その個性や能力をどのように、チームのなかに位置付け、活用するかを考えた上でのチームつくりが行われているということである。
 しかし、日本で行われている多くの団体競技における集団形成は、そのチームの「型」にはめ込む形で行われる。もちろん、集団競技であれば、それぞれの部署で要請される個性や能力があるから、誰をそこに当てるかという点で考慮されるだろうが、あくまでも最初にその集団の型があることが前提である。同じような型の同じような流儀・作戦で闘っている場合には、日本的集団主義は強さを発揮するが、流儀・作戦に新しい要素が取り込まれて、新しい闘い方が編み出されることはあまりなく、他のチームが新しい戦術で強化されると、それに対応することができなくなる。かつて、世界トップの力を謳歌したバレーボールが、その後弱体化して、なかなか這い上がれないのは、そうした弱点があるからだろう。
 
 ジャニーズ事務所のあり方をみていると、この日本的集団主義の側面が色濃くでている。ジャニーズのタレントは、基本的にグループであって、個人として売り出されることはないようだ。特定のグループのファンからすれば、グループごとの個性があるのだろうが、さして関心のない私からみると、どのグループも対して違わないように映るのである。そして、おそらく、デビューから数年間くらいは、それなりのファンにもわかるグループの個性などは、明確ではないに違いない。30代くらいになり、個人としての活動も増えてくれば、さすがに個性の違いがはっきりしてくるだろうが、それでも事務所という「集団」のしばりのなかで活動していることには変わりがない。ジャニーズは、現時点ではまだ2世タレントなどはほとんどいないから、そういう意味では、世襲的欠陥はないが、その代わり、ジャニー氏との関連、極めて不可解なジャニー氏の視点による選別で採用されているという、タレントとしての能力や個性ではないと考えざるをえない点がある。そして、それは、ジャニー氏に完全に従うという意味で、「個」を殺してしまうことになっている。
 個性という点ではないが、いかに個人の権利が無視されているかは、今回の一連の騒動で明らかになったジャニーズ事務所と所属タレントとの「契約」内容である。タレント側の権利は、支払われた額の25%だけを受けとることで、他はすべてが事務所が管理し、事務所の権利は「太陽系全体」に及ぶなどとされていることでわかる。事務所の意向に反したら、役割をもらえないだろうし、退所したら、その後の活動が妨害される。結婚する自由すら制限されているのだから、彼等の権利状態は、想像がつく。
 
事務所とは
 ジャニーズ問題を考えていると、やはり、戦後の芸能活動の運営について、あれこれ考えざるをえない。
 若い人にはほとんど知られていないだろうが、戦後しばらくの間、芸能の興行を取り仕切っている大きな部分は、暴力団だった。とくに地方での興行は、そうだったといわれている。とくに、地方興行を行う際には、そこで勢力をもっている暴力団に挨拶しておく必要があったとされている。そうすると、その暴力団が、秩序を維持してくれる。もちろん、みかじめ料が必要だった。そして、暴力団の意向に反すると、活動できないともいわれていた。その象徴が、当時の大スター鶴田浩二の襲撃事件である。既に映画界のトップスターだった鶴田浩二が、山口組の意向に反したことが原因で、襲われたのである。このことで、暴力団の意志に従わないと、芸能界ではやっていけないという恐怖心が植えつけられたといわれている。その後、鶴田は山口組と和解したとされるが、逆に、暴力団の芸能界への支配力は強化されたわけである。
 しかし、さすがに、暴力団が芸能界を裏から支配しているなどということは、社会的に容認されることではなく、また、大都会ではさすがにそうしたことはあまりみられなかったとされる。芸能活動の中心は大都会だから、そこでの活動を扱う芸能事務所、芸能プロダクションといわれる企業が設立されていった。私が若い頃には、渡辺プロダクションがもっとも大きな企業で、人気芸能人を多数擁していた。暴力団の影響は、その後も長く続くが、そのことではなく、ここで指摘したいことは、渡辺プロダクション自体が、自社タレントを使うように、他社タレントを使わないように、圧力をかけていたということが指摘されており、それは多くの事務所がやっていたことでもあるということだ。それが具体的に横暴な様相をみせたのは、力が強い事務所であり、力が弱ければ、そうした圧力をかけても、あまり実行力がなかったということだろう。つまり、ジャニーズ事務所がやったとされる種々の圧力は、もっとも顕著に現われたということだ。ジャニーズ事務所は、決して芸能界の異端児なのではなく、最も典型的な、そして極端な活動形態だったのである。
 だから、今回の問題が、ジャニー氏の特異な性犯罪という特質がもっとも中心的な問題であるとしても、更に、そこに象徴される事務所とタレントとの関係が変化しなければならない、という点では、芸能事務所共通の問題として考える必要がある。だから、ジャニーズ事務所だけではなく、多くの事務所が変らねばならないのである。
 
 では必要なことは何か。ごく大きな点だけ記す。
・ジャニー氏は亡くなっているので責任はとえないが、あきらかに共犯、幇助を疑われる者には、刑事責任を問うこと
・タレントの個人の権利と義務を契約において、明確に定めること。その契約内容を、タレントが秘密にすることを義務付けられないこと。できたらこうした点を法律で決めること。
・メディアが、ジャニーの犯罪を隠蔽することに協力したことについて、第三者の検証委員会を設置して、その結果を公表すること。
 
 極めて困難であるが、日本社会の欠陥が改善されるチャンスでもある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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