部活の地域移管問題 2 

 前回は、スポーツや文化は多様になっているので、多様な要求に学校の部活という形態は対応できないものになっていて、弊害が多くなってきたことをのべた。その解決としては、地域に多様なクラブを設立して、自分の求める形態の活動をしているクラブを選択して参加するようにすればよい、という主張であった。
 今回は、もうひとつの部活の問題である、教師の無償労働の問題を考える。
 
 部活は学校の内部的な活動として行われるが、正規の学校教育の一環ではないので、その指導にかかわる教師は、どんなに長時間指導しても、その対価が支払われることは、つい最近までなかった。近年では、ごくごくわずかな手当がだされるようになっているようだが、到底、指導にかかる労働に見合うものではない。そして、問題は、無償労働であるにもかかわらず、何か事故があったときには、責任を問われるのである。もちろん、民事的な損害賠償責任を負うのは、国家だから、そうした責任を教師個人が負うことはないが、不注意による行政処分などは十分にありうる。不十分ながらの手当がだされるようになった経緯は、詳細には知らないが、教師の過重労働が社会問題化し、その大きな要因が部活指導になることが、大きく問題になったから、せめて手当を出すということになったのだろう。残念ながら、サービスをうける側からの提起はあまりなかったようである。

 
 社会のなかでは、あるサービスをうける場合には、サービスを提供する人にたいして、適切な対価を支払うことが当たり前である。もちろん、そのサービスの内容などが、法的に規定されている場合には、その費用を公費が負担することはある。そして、国民の多くがうけるサービスについては、公費負担分が多くなることが、一般的には求められる。
 では部活はどうなのか。
 学習塾に通う場合、塾が求める費用を出すことは、当然だとほとんどの親は考えているはずである。例外的に、貧しい家庭のために、塾費用を公費で負担する案とか、学校が塾の講師を呼んで、学校内で塾を開かせ、授業料を安くさせる、などという代替案が実施される場合はあるが、それは例外であり、一般的には、義務教育で学ぶことを塾で学んだとしても、塾費用を親が負担することを、疑問には思っていない。
 では、地域にあるリトルリーグ(野球)とか、サッカー・クラブの場合はどうだろうか。私は、そうしたものに参加したり、子どもを参加させたことがないので、詳しくはわからないが、やはり、一定の費用負担があるとおもわれる。地域のスイミングスクールなどは、規定の料金がある。
 ところが、部活で野球部やサッカー部で活動し、顧問が指導しても、それに見合うだけの費用を、参加者が負担し、指導者が指導料を受け取るというシステムは存在しない。現在だされている手当も、部活参加者が負担しているわけではない。つまり、無料でサービスをうけていることになる。こうしたことは健全なありかただろうか。私は、こうした傾向は、他にもあるわけだが、やはり、健全な民主主義社会のありかたではないとおもうのである。
 
 現在でもあるだろうが、選挙があると、不正な行為が多数行われる。総選挙などだと、国政が絡んでくるので、与党の場合、公共事業の配分権限などを有しているかのように振る舞えるので、公共事業をまわすことを条件に、企業ぐるみでの協力を求めることが少なくない。公共事業にかかわる官庁の元官僚が候補者であれば、そうした働きかけは、実際に効力を発揮する。しかし、こうしたありかたが、民主的な選挙のありかただとおもう人は、少ないにちがいない。少なくとも民主主義を重視する人は、これを肯定しないはずである。これは、被選挙権者からの働きかけであるが、逆に選挙民が、なんらかの対価を求めることも当然ありうる。そうした選挙による対価の要求は、一種のたかりである。正当な対価ではない見返りを求めることをたかりと考えると、たかり行為は、世の中にいくらでもある。たかりが横行する社会は健全とはいえない。
 
 では、何故部活の指導は無償でうけられるという感覚が広まったのだろうか。それは、あきらかに、それが学校で行われ、学校の教師が指導しているから、学校教育の一環であるという錯覚が定着してしまったということだろう。そして、とくに義務教育は無償だということになっていて、授業料を払うことはないのだから、教師の指導料は不要だという感覚になった。しかし、部活は、実は正規の学校教育の一部ではないこと、そして、あまりに過重な労働を教師が負担させられていることが、社会に認知されるようになって、一部では、少額の手当が払われるようになったのだが、親や子どもの側は、義務ではなく、自分で選んだサービスの指導料を払う感覚にならないでいるのが現状であろう。
 前回紹介した記事のなかでも、地域移管になると、指導料を払うことに抵抗があるという親の意見が紹介されている。しかし、はっきりいって、それは不当な感覚である。たかりの感覚といってもよい。サービスをうければ、それにたいして対価を払うことは、当たり前のルールなのである。もちろん、そうしたサービスを無償労働として提供するがわが、それを承知で、また積極的な意味を感じて提供している場合には、それでもかまわない。私のこのブログも無料で公開しているし、多くのインターネットの情報は無料で提供されている。しかし、多くの無料提供は、広告収入や、アクセスによる情報入手等で、対価をえているし、また、民放テレビは広告会社が、広告効果を期待して、費用を負担している。ところが、部活の指導をしている教師は、多くが、いやいややらされているのである。いやいや指導させられて、いい結果が生む可能性は極めて小さい。
 
 もちろん、対価といっても、サービスに対するもの以外にも、使節の使用料などの諸経費もある。そうした経費を、国民がスポーツや文化活動を活発にしやすくなる環境を整えるために、自治体が施設をつくり、無料あるいは安価に貸すことは、当然求めて当然だろう。しかし、基本的には、サービスをうければ、その対価を払う。サービスを提供する側は、適切な対価を受け取る、そういう関係でこそ、健全な指導・被指導の関係が生まれるのではないだろうか。
 そういう意味でも、学校での部活は廃止し、社会のクラブとして再編される必要がある。そして、対価を払ってこそ、さまざまな要求ができるのだし、また、自分にあう団体を選ぶことができるようになるのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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