猿之助事件は、当然その中心的問題は、犯罪に該当するのかどうかという点だが、それは別途考えることにして、その前の段階のことを考えたい。
歌舞伎界が、他の芸術・芸能分野と極めて異なるのは、いまでも中心役者の育成が世襲家族単位が基本になっていること、そして男性だけの世界であることだ。女性差別に対して、非妥協的に批判する団体は、この歌舞伎の男性限定の世界に対して、どう思っているのだろう。私の見る限り、歌舞伎界も女性に門戸を開け、という主張を大々的に行っているとは思えない。ウィーンフィルがアメリカに演奏旅行にでかけたとき、アメリカの女性差別反対の団体が、大きな抗議運動をして、その後ウィーンフィルが女性団員を認めることになったという経緯があった。記録によると、歌舞伎は、2013年にアメリカ公演をしている。ウィーンフィルへの抗議運動以降だが、抗議運動があったとは記されていない。オーケストラとは受け取りが違うのかも知れない。
イタリアのオペラでは、19世紀初頭くらいまでは、女声は排除されていて、去勢された男性歌手(カストラート)が女性の役を歌っていた。だから、イタリアの女性歌手は、オーストリアやフランスにいって歌っていたのである。もちろん、そうした非人間的なあり方は、市民革命の思想がでてきた時代に通用するはずもなく、イタリアでも女性の役は女声がやることになったのだが、歌舞伎は、非人間的な形ではないにせよ、女性を男性が演じるというやりかたが、現在でも踏襲されている。
もうひとつは家制度とでもいうようなシステムが、現在でも残っていることだ。これは、歌舞伎という芸の水準がそれほど高くないことによって保障されているのだろうと考える。本当に高いレベルでの技術が必要な分野であれば、世襲で継続できるはずがない。スポーツの世界で、トップレベルで活躍した親子というのが、極めて少ないことを考えればわかる。それが、代々続けられている歌舞伎の芸が、高いものであるはずがないのである。一度だけだが、生の舞台をみたことがあるが、技術の高さを実感するところは、ほとんどなかった。
現代社会では、こうした世襲的な継承が行われているところは、「水準低下」が必然的に起こると考えられる。それは日本の政治の世界に既に端的にあらわれている。
何故低下せざるをえないのか。
第一に、技術は才能と努力の両方が必要で、才能のある親から、必ずしも才能ある子どもが生まれるわけではなく、また、親のような努力を子どもが、同じようにするとは限らないからである。子どもは、親が若い時期に、どれだけ努力したかを直接みていないから、そこに到達するための条件を実感できない者がいても不自然ではない。
第二に、才能をもつ、努力をする子どもがでてきたとしても、その人が、別の道にいきたいと思う可能性も小さくないからである。才能を開花させる分野は、時代とともに拡大していくのだから、親の世代からみれば、活躍の場は多様になっている。スポーツの世界をみれば、一目瞭然である。私が子どものころは、スポーツの才能のある子どもが、多額のお金をえられるスポーツは野球と相撲くらいしかなかった。いまでは、たくさんのプロスポーツが存在していて、野球よりも多額の収入をえられるスポーツもいくつかある。芸能や芸術でも同じことがいえる。
つまり、世襲制に頼っていれば、芸の水準を保持できないことは明らかなのである。歌舞伎の世界でも、養子制度をとりいれることで、水準をたもってきた面がある。しかし、それだけでは、とうてい維持できるものではない。
さて、世襲制の弊害は、別の面にもある。そして、その弊害が今回の猿之助事件に関連していると考えられる。真偽のほどは確かではないが、猿之助がまだ若かったころ、弟子たちに、「お前たちは家畜と同じだ」などという趣旨のことをいっていたというのだ。もちろん、弟子は、世襲の家の者ではない。世襲といっても、名代を継ぐようなひとたちであって、実際の舞台では主役級を演じる者だ。当然それ以外の脇役や端役もあるわけだから、たくさんのスタッフが必要である。ところが、世襲のひとたちの地位が絶対であることによって、こうした歪んだ関係が生じやすい土壌が生まれる。もちろん、そんなこととは無縁のひともいるだろうが、そうした横柄な人物があらわれたときに、それをとめる人物が現れにくいシステムなのである。
いままでは、内部的に許され、外部からのクレームなどつけにくい雰囲気があったが、さまざまな分野で、内部の不合理なこと、非人道的なことが、外部にもれ、外部からの批判にさらされる時代になっている。こうした歪んだ関係が生じやすい環境を改善するには、やっていることを透明にし、誰でも志があるものは、そのことに挑戦できるシステムにしていくことが有効であろう。また、そうしてこそ、その分野の、ここでは歌舞伎の水準も向上し、また新しいことも創造されていくように思われる。