長野県で起きた殺人事件は、警察官2人をふくむ4人も殺害したという、稀に見る事件であった。これまでの判例から判断すれば、死刑になる可能性が極めて高い。しかし、犯人の成育歴をみると、なんらかの精神疾患を患っていた可能性を感じる。とすると、刑法39条の「精神疾患心神喪失者の行為は、罰しない。 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」に関する議論が再燃する可能性が高い。日本の司法では、責任能力がないことが認定されて、殺人犯が罰せられない結果になることは、極めて稀であるが、それでも、精神疾患の患者が大きな犯罪をした場合、この規定の適応をめぐって、たくさんの議論がなされてきた。刑法は、法律学のなかで最も理論的側面が強いといわれているが、逆に、理論的であるが故に、素人でも見解をもつことができる、あるいはもたねばならない。私自身、法律学の専門家ではないが、これを機に、この問題を考えておきたい。
犯罪とは、自由意思をもった人間が、意図して、犯罪とされる行為を実行することとされる。逆にいえば、「自由意思」をもっていない、あるいはもてない状況で、あるいは意図的に行ったわけではなく、不可避の行為だった、というときには、犯罪と認定されないわけである。だから、犯罪とされる行為を行ったとしても、自由意思や意図がなければ、罰せられないことになり、それが刑法39条になっている。
しかし、犯罪を何故罰するのか、という根拠で考えると、この犯罪構成論とは、少々矛盾するところがでてくる。
何故、犯罪を罰するのか。その理由は、大きくわけると3つあるとされている。
1 社会防衛。社会の安定を保障し、不安を無くす。
2 応報。悪いことをしたら、償いが必要である。他人の財産を奪ったら、同等のものを返し、他人を傷つけたら、同等の傷を負わされる。
3 教育。再び犯罪をおかさないように訓練して、社会の安全を保障する。
このなかで、最も39条と矛盾するのは、1の社会防衛のための処罰論である。犯罪をおかした人間が、普通に生活していたら、住民にとっては不安極まりないから、社会の外に追い出すことによって、安全を図ろうというのが、社会防衛論であり、最も苛烈な罰が死刑である。昔は次に「追放・流刑」があり、現在では追放は不可能だから、「刑務所」に収容することによって、実現している。確かに、この方法をとれば、犯罪者は一般社会から排除されるので、安全性は高まるというわけだ。
ところが、責任能力がないことで、無罪になれば、社会で生活することになるから、当然、社会の不安は払拭されない。死刑を廃止している国は多数あるが、刑務所制度を廃止している国は、おそらくないだろう。懲役か禁固かの違いはあるが、刑務所に収容するのは、一般社会から隔離して、犯罪者が一般社会のなかで生活することを不可能になるため、つまり社会防衛論の適用である。もし、責任能力がない者が、殺人をおかしたのが、そのときの偶然で、再度おかす危険性はない、ということが、科学的に証明されていれば、39条は適切であることになるが、そのようなことは証明されていない。
とすると、社会防衛という理由による罰の適用は、責任能力欠如者の除外という理屈は成立しないと考えられるのである。
2の応報刑については、専門家の間でもかなりの論争があるようであり、また、現代社会において、応報という考えが有効であるのか、また、社会や被害者にとって、どれだけ意味のあるものかは疑問であり、刑法39条との関係で考察する意味も、あまりないように思われるので、省略したい。
3の教育刑は、社会防衛の変形ともいえるが、この考えにたてば、責任能力が問われる人ほど、むしろ教育刑的措置が必要であるということになる。文字通り法的には責任能力のない14歳未満の者は、児童保護施設や少年院等の矯正施設にいれられて、教育を受けることになるし、判断能力が不十分であれば、判断能力が向上するように教育する必要がある。また、精神疾患であれば、治療が必要であろう。
つまり、何故犯罪者を罰するのか、という根拠で考えると、責任能力が(これはあくまでも法的な意味での責任能力にすぎない)ないから、犯罪として問えないという理屈は、成立しない、逆に、判断能力がなかったり、精神疾患故に犯罪をおかしたのだとすれば、そのほうが、処罰なり、その他の措置が必要ということになる。
精神疾患によって、無罪になった場合、措置入院となる場合が多いが、これも、それほど長期間入院となるわけではなく、比較的短期で退院するといわれている。障害者施設で大量殺人を行った犯人も、一時措置入院だったが、早期に退院して事件を起こしたのである。
したがって、この場合、「刑期」を決めるのではなく、責任能力が認められるほどに改善したか、精神疾患が治癒したか、などという基準で退所・退院が決められるという認定のほうが合理的であることになる。
ただ、残念なことに、こうした判断が、高い確率で正確に可能である、という学問的段階にはなっていないように思われることである。そして、とくに日本では、こうした研究があまり進んでいないようにも思われる。理論的な観点と、犯罪者の状況を判断できる診察法の確立とのバランスをもって、39条は再検討していく必要があるように思われるのである。