「鬼平犯科帳」密偵たちの死4 伊三次

 死んだ密偵として、「鬼平犯科帳」をよく知る人なら、誰もが、何故伊三次がでてこないのか、と思ったに違いない。やはり、伊三次は最後にとりあげる密偵だ。伊三次は、小説でも、ドラマでも、人気のある人物で、伊三次を演じた三浦浩一は、役者人生の半分は、伊三次を演じていたといって、この役を自分の宝と思っていると語っていた。役をもらったときには、まだ原作を読んでおらず、友人から、伊三次は「五月闇」で死んでしまうと教えられ、プロデューサーに「五月闇」はドラマの最後にしてほしいと頼んだのだそうだ。しかし、6シリーズで演じてしまったので、その後は、でないつもりでいたところ、再度出演依頼があったが、断る三浦に、「まだ伊三次が生きていたときの話」というナレーションをいれることで、オーケーしたという。シャーロック・ホームズを殺してしまったコナン・ドイルに、抗議が殺到した、というほどではないだろうが、かなり似たような反応があったのかも知れない。

 伊三次は、平蔵お気に入りの密偵だが、他の5人とは少々ことなる点がいくつかある。
 まず、他の5人は、密偵になるいきさつが、ひとつの話として設定されており、過去のことも、捕まったいきさつも(おまさと彦十だけは、捕まって密偵になったわけではないが)すべて明確なのに、伊三次だけは、突然密偵として登場する。そして、過去のいきさつが語られるのは、14シリーズで瀕死の状態になったときなのだ。それまでは、捨てられ、女郎に育てられたということだけが明かされ、盗人としての前もほとんど説明抜きだ。しかし、最初に登場するときから、際立って優れた密偵として活躍し、しかも、役宅の長屋に寝起きしていて、木村忠吾と親しく、平蔵にも頻繁に使われている。さらに、6人のなかで、唯一重大なミスを犯して(捜査中のことを木村忠吾に漏らしてしまう)、平蔵から、そんな口の軽い密偵はいらないから、出て行けとまで言われてしまう。それを泣いて誤って許される。こういうミスは、中心的密偵は、一切していない。つまり、伊三次は、最も人間らしく生きている密偵なのだ。
 第二に、きまった、お気に入りの、おみねという女郎がいて、比較的頻繁に出入りしており、平蔵も周知している。一度は結婚したいなら、世話してやるとまで言われている。
 そして、第三に、殺害されてしまうことである。まだ大阪で盗賊だった伊三次が、仲間の強矢の伊佐蔵の女房おうのを奪ってしまい、気づかれそうになって伊佐蔵に切りつけるが、激しく抵抗されて逃げてしまう。江戸にやってきて、平蔵に捕まり密偵になっているというわけだった。一緒に逃げたそのおうのを殺してしまうのだが、おそらくそうしたこともあって、伊三次は伊佐蔵に負い目を感じていたのだろう。
 おみねのところにいったとき、「伊佐さん」という客がきて、胸に大きな切り傷があったという話を、伊三次にと聞かせる。すると、伊佐蔵に違いないと思い、平蔵に伊佐蔵がきているらしいと告げる。それを告げるときに、伊三次は明らかに様子がおかしく、それに平蔵も気づくのだが、結局、見張りを伊三次に任せてしまう。平蔵は、伊佐蔵が江戸で盗みをすると解釈して、普段のように見張りを頼むのだが、おそらく伊三次は、伊佐蔵が自分を殺しにきたのだ、と感じたのではないだろうか。そのように書かれているわけではないのだが。明らかに、普段と違う様子をしている伊三次を、平蔵が深く考えなかったのが、不可解なところだ。
 おみねのところに再度くるといっていたというので、おみねの店に見張りをたてるように、伊三次にいいつけるのだが、いつもの平蔵としては、いかにも、手抜かりがある感じなのである。
 平常心を保てなくなった伊三次が、蕎麦屋で深酒をしたあと歩いていると、たまたまそこにいた伊佐蔵が、追い付いてきて、伊三次を刺してしまう。たまたま、近くにいた密偵や同心が、それを発見し、伊佐蔵を追いかけ、平蔵もやってきていて、伊佐蔵をつかまえる。
 伊三次は、近くの旗本の屋敷に担ぎ込まれ、手当てを受けるが、死んでしまうわけである。
 
 このあとの話で、平蔵が事件捜査中に、「伊三次を呼べ」と思わず叫んでしまう場面があり、平蔵がいかに伊三次を重視していたかが、まわりに伝わるのだが、では、作者は、何故伊三次を選んで死なせたのだろうかと、いろいろ考えさせるものがある。
 もちろん、これまで紹介したように、けっこう重要な密偵が死んでいるので、伊三次が死んでも、特別ではないともいえるが、しかし、6人の中心的密偵は、はっきりと他の密偵とは区別されており、伊三次以外は、かなり危険な目にあっても、死ぬことはない。与力と同心も、やはり死んでしまう者が少なくないが、常日頃登場し、平蔵に重用されている与力同心は、原作のなかでは誰も死んでない。刺客にあって殺害される同心や喧嘩で死んだ与力もいるが、ただそれだけのことで登場する以外は、悪事に加担して成敗されるのがほとんどだ。つまり、日頃から平蔵とともに活躍している与力・同心、そして密偵のなかで、死んでしまうのは伊三次だけなのだ。
 
 密偵たちは、常に危険に曝されて活動しているように、記述としては書かれているが、実際に、この中心的な密偵たちは、おまさ以外は危機的状況に陥ることはほとんどない。おまさの危機も、おまさ登場の回で、平蔵との昔からの緊密な関係をより強調するために、そうした状況設定をしたような印象だ。五郎蔵もやはり、登場の回に、手下たちに裏切られて危うく殺されそうになるが、ずっと見張っていた平蔵たちに助けられる。しかし、これは密偵になる前だ。
 しかし、伊三次は、前にも確かに危険な目にあっている。盗賊に弱みを握られている(舟のなかで殺人を犯してしまう場面をみられている)与力の富田達五郎が、脅迫される手紙を読んでいるところに、平蔵が入ってくる。とっさに取り繕ったが、一瞬手紙を隠そうとした様子に不信の念を懐いた平蔵が、門番に手紙がきたときの状況を、伊三次に探らせる。怪しまれたと感じている富田は、翌日門番にご馳走しながら手紙を届けた人物を聞き出すうち、伊三次も同じことを聞きにきたと、門番がしゃべってしまうので、帰宅時に富田は、その門番を殺害してしまう。読者としては、殺害する必要はまったくないし、かえって事態を悪化させると思うが、門番が殺されたことを聞いた平蔵は、次に伊三次が狙われると危惧して、すぐに伊三次を避難させるのである。実際に伊三次が襲われたわけではないが、状況としては、確かに危険な状況に陥っていたといえる。富田は、このあと、盗賊に100両払うように脅迫され、そのために辻斬りをするようになる。普段は店を経営して、特別に密偵として活動していない密偵に、富田を見張らせていた平蔵が、富田の辻斬りを知って、待ち伏せして切り捨ててしまうという結末になる。富田が道を外れてしまったことを、より印象的にするために、実際に、ここで伊三次が殺されることにしても、展開としては可能だった。平蔵のミスが、浮き彫りになることにもなる。しかし、それでは伊三次の死が中心的な筋にはならない。伊三次の死をあくまで中心的なテーマとする話が必要だったのは確かだ。
 この事件で、これだけ伊三次の危険を配慮した平蔵が、伊佐蔵に対しては、かなり配慮が足りないのも、すっきりしない点だ。
 6人のなかで、最も若く、もっとも活動量の多い伊三次でも、命を落とすほどの危険な仕事なのだ、ということを、より鮮明にするために、伊三次を選んだのだろうと、私には思われる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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