宮原誠一教育論集の月報として書いた「宮原理論の教育学的骨格」という短い文章を読んだ。五十嵐氏が心臓疾患を発症して、入院中に、病室でまったく参考資料のない状態で書いたもので、氏の考えが実に簡潔に書かれている。宮原理論は、知識や教養を高めるための陶冶と規範を自覚させる訓育とが、実践的に結合されている理論であることが、最も重要だという主張である。しかし、それがどのように具体化されるかは別として、その両方が必要であることは、古来誰もが認めてきたことであって、そのこと自体は当たり前のことである。宮原がそれを有効に具体化できたかどうかは、また別の問題であるが、実は、教育制度論からみて、このふたつが必要だということの「制度的実現」は、極めて困難な理論的問題を含んでいる。
知識や教養を、学校で教える、学ぶことを否定する人はいない。しかし、価値観や規範、道徳について、学校教育の任務であるかについては、多様な見解がある。そして、それは多くの場合、対立的ですらある。
教育学の多くは、近代社会における、特に義務教育については、世俗性であるべきだと示している。もちろん、「多く」ではあっても、「すべて」ではない。
イスラム教のように、国家と宗教の分離原則を採用していない国家は、ここでは考慮の外におく。いわゆる西欧型近代社会における「世俗性」原則を考えたいからである。
単純に、宗教の授業を公立義務教育学校に取り入れるかどうかについて、以下のようなパターンがある。
1 宗教ではなく、国家が独自の価値観・道徳教育を行う。 日本・フランス
2 宗派にとらわれない、表向きは共通要素による「宗教」の時間を設定 イギリス・オランダ
3 宗教の時間があり、宗派や宗教ごとに分かれて授業 ドイツ
4 宗教自体を禁止、あるいは抑圧し、独自の価値観教育 社会主義国家
こうした分類についても、人によって異なる分類をするに違いない。ここでは1にした日本とフランスも、違う形態として、わけることは可能だ。日本は一貫して「道徳教育(修身と名称は道徳と同じと考えてよい。)」であるが、フランスでは、道徳教育の名称が使われなかった時期もあり、いまでも「市民教育」という考えが多くを占めている。しかも、日本は、戦前は修身(道徳)が軍国日本を作り上げる上で大きな役割を果たした。そして、戦後も、道徳教育は大きな政争となってきた。フランスでも、特に第一次世界大戦前は愛国心をあおる道徳教育が施されていたとされる。ドーデーの「最後の授業」などは、そうした雰囲気を伝えている。しかし、対独レジスタンスの影響もあって、戦後は大きく変化して、市民教育となり、現在では「道徳・市民教育」という形になっているそうだ。
イギリスとオランダは、政府が教育内容に干渉する度合いがすくない国だったが、現在では、程度の差はあれ、政府が教育内容に関与するようになり、宗教の授業も設定されている。ただ、オランダは、宗派学校、宗教的学校である私立が公立よりもずっと多く、学校選択の場合、宗教は選択基準のひとつになっている。また、公立と私立の経済的状況はまったく平等である。ドイツは、ワイマール憲法においては、親が要求すれば、宗派学校を設立する義務が国にあったが、公立学校でも宗教や宗派の教育は、分かれて行うという伝統として残ったのだろう。ヒトラーが私立学校を全廃させたので、現在でもドイツは公立学校が主体で、学校自体を宗派的に編成するよりも、宗教の時間だけ分離する方式になっているのだろう。
当然、学校のなかでも、信教の自由は尊重されなければならない。信教の自由とは、当然、如何なる宗教を信じることも、また信じないことも、個人の自由であり、公的権力がそこに干渉することは許されないということである。では、学校のなかで信教の自由が保障されるということは、どういうことなのだろうか。上の4つのうち、どれが正しいのだろうか。また、日本やフランスでは、公立学校で、宗教を教えないとしても、国家が決めた道徳教育は、信教の自由を侵していないのだろうか。フランスでは、イスラム教徒がスカーフをつけて授業を受けることに、大きな論争がおき、結局、法律で禁止している。
「道徳教育」となると、形式的には、「良心の自由」になるのだろうが、信教の自由と良心の自由は、同じことといってもよい。信教の自由、良心の自由を尊重しながら、学校教育が、社会規範の教育を行うことは、どういうことなのか。
もうひとつの問題は、信教の自由は欧米では、守られているとしても、国家と宗教の関係は、国によって異なる。
五十嵐氏は、自他ともに認める社会主義者であったのだから、学校教育のなかでは、完全な世俗性、つまり宗教を一切持ち込まず、道徳は社会主義建設を担うにふさわしい人格を養成することが、望ましい道徳教育であると考えていたはずである。もちろん、資本主義国家である日本で、そうした道徳教育が行われるはずがないのだから、その間の氏の、望ましい道徳教育の在り方については、ほとんど書いていないと思われるので、知ることはできない。そうしたことと、実際の社会主義国で行われていた規範に関する教育について、どのように評価していたのかは、やはり、考察していく必要がある。(今後の課題)
日本では、信教の自由は、きちんと守られているのかといえば、昨年来の統一教会問題をみればわかるように、日本の政治と宗教は、かなりずぶずぶの関係にある。そして、宗教法人に無税特権を与える続けることを意図して、宗教は政治家に協力支援をしている。政治が宗教に強く影響されていることを考えれば、信教の自由が守られていることについて、大きな疑問が生じることは避けられない。(つづく)