五十嵐顕考察8 求道者的研究者

 著作集のために、OCRにかけて、著作をDTPにかけられるようなファイル化を進めているのだが、当然、丹念に読むことになる。実は、これまで、それほど熱心な読者ではなかったので、これだけ丹念に読んだことはなく、いろいろな発見があった。
 そのひとつが、題名のように求道者的な研究者だったのではないかということだ。五十嵐顕という研究者は、マルクス・レーニン主義者だったと思われている。もちろん、それは間違いないだろう。実際に『マルクス主義の教育思想』という著作を出しているのだから、そう思われて当然だろう。実際に、通常の日本の教育について論じる文章でも、頻繁に資本論の引用などがでてくる。

 マルクス主義の立場にたつ研究者には、ふたつのタイプがあるように感じている。
 ひとつは、マルクスの訓詁学を詳細・精緻にやるタイプである。キリスト教神学研究者に似ているかも知れない。代表的には宇野弘蔵氏である。もっとも、宇野氏は訓詁学にとどまった人ではない。
 もうひとつは、マルクス主義といわれる方法や立場から、実際にある時期・ある社会の分析をするタイプである。代表的には藤田勇氏や加藤哲郎氏をあげることができる。
 しかし、五十嵐氏は、どうもどちらのタイプでもない。マルクスやレーニンの著作を詳細に分析して、そこに新しい解釈を生みだそうという姿勢は、まったく感じないのである。もともと、マルクスもレーニンも教育学が専門だったわけではないし、直接教育を分析した著作があるわけではない。運動の必要に応じて、教育に触れている程度だ。わずかに触れられているマルクスやレーニンの原則的な叙述を、日本の現状に対する判断基準として使っているといえるように思う。しかし、判断基準といっても、あくまで補助的なもので、教育委員会制度の任命制、教師の政治活動制限(教育二法)、全国学力テスト、勤務評定、教育投資論等々への見解は、あくまでも、それが教育をよくするかどうか、という現実的な判断が基本であって、外国の思想に依拠して判断したということではない。
 信仰厚い科学者が、ある現実を判断をして、それを明確にし、そのあとで、聖書でこう言われていると付け加えたとき、その科学者は、聖書に書いてあるから、そのように判断したのだろうか。矢内原忠雄は、戦前、日本の植民地政策に反対し、戦争に反対したわけだが、聖書が植民地を否定したり、戦争を拒否したからというわけではないはずだ。キリスト教徒でなかったとしても、矢内原は、植民地政策に批判的であったと考えざるをえない。矢内原の場合、信仰は、権力に逆らって、政策を批判する勇気を支えたのだと思うのである。
 五十嵐氏のマルクス主義も、矢内原のキリスト教と似たような役割だったのではないだろうか。
 
 そんな印象をもちながら、作業をしていたのだが、いくつかの文章で、五十嵐氏が学生のとき、矢内原忠雄の聖書講義に何度か出席したり、藤井武の講演を聞いたりしていたのだと書かれている。つまり、信者にはならなかったが、無教会派のキリスト教にかなり関心をもっていたことは間違いないし、後年、しきりに、若い研究者に矢内原忠雄を読め、と進めていたらしい。また、貧しいなか、夫に死なれて、一人で子ども3人を育てた母は、熱心な浄土真宗の信者だったという。ときどき子どもたちを放置したまま、信仰のために時間を使ったそうだ。子どもとして、そうしたことは、五十嵐氏は嫌だったようだが。
 そうした人生行路に、更に、戦争体験が加わった。繰り上げ卒業したあと、徴兵され、5年間の兵役生活をし、最後の一年は、おそらく捕虜として抑留されていたのだと思われるが、その点は、あまり語っていない。とにかく、終戦から1年後に帰国している。そして、晩年はBC級戦犯として処刑された木村久夫のことを、贖罪として研究していた。自分も木村のようになったかも知れないと、ずっと思っていたようだ。つまり、五十嵐氏の研究者としての活動は、帝国主義戦争に反対できなかったという反省が基本であり、その観点から、教育や政治を判断していったのである。
 そういう意味では、乱暴な言い方になるが、マルクス主義ではなく、無協会派のキリスト教を受け入れたとしても、基本的には、同じ姿勢で教育を研究をし、論文を発表したのではないだろうかと、思うのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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