総務相行政文書 放送の中立性を考える2

 総務省文書が提起していることは、要するに、放送法の政治的中立に関する「解釈」を変更したかどうかである。そして、その変更を強権的に行なったかどうかも、問題となるだろう。
 文書を読む限りは、安倍首相(当時)の意向を受けた礒崎補佐官が、従来の「全体としての偏向」から、「単独の番組での偏向」も、中立性を侵すものだという解釈変更を、総務省に迫ったと読み取れる。しかも、かなり高圧的だった様子が、明確に読み取れるわけである。
 
 そして、高市氏との関連でいえば、高市氏が安倍首相と連絡をとったかどうかが、ひとつの焦点となっている。前回も書いたように、首相が押し進めようとしていることを、その対象官庁である総務省が抵抗していて、かなり煩雑なやり取りがなされているとき、総務相であった高市氏が、まったく関与していない、つまり、電話でも対面でも首相と話し合っていないなどということは、ありえないことである。「電話では話していないが、対面で話していた。だから、文書は正確ではない」などというのであれば、語るに落ちるということだろう。要するに安倍首相と意思疎通をしていたかどうかが、焦点なのだから。

 そして、事実、高市総務相は、国会で、次のように述べたと報道されている。
 
 「会議から約2カ月後の5月12日、参院総務委員会で、当時の高市早苗総務相は放送法の政治的公平について「これまでの解釈の補充的な説明」として、「一つの番組のみでも極端な場合は一般論として政治的に公平であることを確保していると認められない」などと答弁した。」
 
 こういう答弁をしている以上、高市総務相が、安倍首相や礒崎補佐官と、きちんと連絡を取り合っていたことは疑いようがないのである。しかも、当時総務相だったのだから、この文書は部下たちが作ったことになる。その文書を捏造だというということは、部下たちを掌握しきれていなかったことを、自分で認めていることになる。
 ただ、なぜ今立憲民主党が、この文書をもちだしたのかは、よく理解できない。ずいぶん前のことだし、サンデー・モーニングはほぼ形を変えずに続いている。どちらが転ぶかという、あまり生産的な議論ではないと言わざるをえない。
 
 さて、肝心の放送における政治的中立をどう考えるのか。
 放送が、新聞などの他のメディアと違うのは、限られた電波枠の割り当てをうけて事業を行なっている点である。新聞は、自発的に発行し、読者から料金をとって情報を提供している。読者が望まなければ、料金を払わないし、読みもしない。そのプロセスに、公的機関が介在することはない。
 しかし、電波枠の割り当ては、行政の仕事であり、限られたソースを使うので、公共性が求められ、政治的中立が要請される、という仕組みになっている。
 まず問題になるのが、そもそも中立でなければならないという法原則そのものの妥当性だろう。私自身、その詳細に立ち入る知識がないのだが、とりあえず、限界のある電波を公的に割り当てられている以上、特定の党派的番組ばかり作るというのは、是認できないとはいえる。
 そこで、
1 番組制作側にとって、中立とは何か、また、法原則とは離れて、どういう意味があるのか。
2 誰がどのように認定して、対処を要請するのかという点だろう。政府、制作者団体、視聴者、一般国民、それぞれ立場が微妙に異なるはずである。
 
 番組制作者にとってだが、個別とか全体にかかわらず、対立する立場があるようなテーマを扱う場合には、できるだけ、いくつかの主要な立場を同席させる、あるいは、時間差に個別に出席させる等で、多様な立場を出演させることが、よい番組つくりであると思う。それは法で規定されているからというのではなく、番組そのものの価値を高める、番組の視聴者への提起としての意味を伝えやすくする、そして、国民に考える力を向上させる点で、そうした番組が効果的であるということだ。
 典型的な例でいえば、羽鳥モーニングショーとサンデーモーニングの違いといえるだろう。羽鳥モーニングショーは、玉川氏が出演していたときには、こうした多様な意見がディスカッションで明確になったり、深められたりしていた。現在では、常連ではなくなっているので、彼がいるときといないときの対比としても、そのことが現れている。それに対して、サンデーモーニングは、同じ立場のひとたちが集められ、まったくディスカッションがない。本当は微妙に違うのかも知れないが、おそらく関口氏の対応能力の問題もあるのだろう、議論が展開していくのを、私はみたことがない。だから、面白くないので、サンデーモーニングは、スポーツしか見なくなった。
 BBCには、ハードトークという、かなり聴きにくいことをずばり切り込むインタビュー番組があるが、あのような番組が、日本にはなかなかできにくいのは、残念だ。
 
 視聴者や国民は、自由に番組を批判すればよい。あきらかに誤解に基づいた見解や誹謗中傷などがあったとしても、その対応はまた別の問題だろう。番組制作者は、そうした批判を受けとめて、次に活かせばよい。
 問題は、政府や政党だ。ただ、私の見解は単純ではっきりしている。
 政府や政党であっても、表だって批判するのは、自由であると思う。誰でも言論の自由があるのだから、政府の人間だから、意見をいってはならないということはない。しかし、安倍内閣で典型的であり、かつ、今回の文書でも問題になった件では、表だって批判するのではなく、裏から圧力をかけて、番組を潰したり、あるいは担当者を変えさせたりするということは、絶対にやってはならないことだ。荒川強啓
のラジオ番組がなくなったのは、時期的にみても、私は政府からの圧力だったと思っている。古館が降りたのもそうだろう。荒川の番組で、間違っていると思うことについては、冷静に意見公表し、荒川の側でも、反論すればよい。そうして、どちらが正しいか、視聴者が判断すればいいのである。しかし、裏から圧力をかけて、番組がなくなってしまうというのでは、政府自体が腐敗するし、国民にとっては、貴重な財産を奪われることになる。
 政府がそうした対応をとるとき、放送局は、どれだけプロ意識をもった組織であるかが問われる。サンデーモーニングは、とにかく現在でも同じように続いているが(もっとも、レギュラーをはずされたコメンテイターがいたが)、報道ステーションは、古館を降ろすことで、権力に屈した。
 
 もうひとつ、中立の問題は、別の側面から考えておく必要がある。それは、インターネットである。インターネットには、明確な政治的立場をもった番組が多数ある。youtubeで定期的に配信されている政治グループのなかで、逆に中立を売りにしているものが、ほとんどないといってもよい。そして、今では、そうしたyoutubeの番組のほうが、テレビよりおおく視聴されているともいえる。もちろん、ネットでは、政治的立場の偏向禁止などという法規制することは、おそらくできないだろう。公的に電波を割り当てられているわけではないからである。
 従って、テレビは中立を看板にし、ネットは特定の立場を代表するような番組というような棲み分けが定着していくのがよいかも知れない。
 
 テレビの中立性ということで、オランダのやり方は参考になるかも知れない。オランダの国営テレビには、政党の時間が各政党に割り当てられており、割り当てられた時間帯で、政党は自由に番組を制作して放映できる。それに対して、選挙や大きな政治的争点のある話題が扱われるときには、複数の政党の代表を招いて、互いに討論をさせる。政党の組み合わせは、順次変わっていく。こうしたやり方だと、政党は十分に自分たちの政策を訴えることができるし、他党のすりあわせで、支持を増やしていくこともできる。もちろん減らす危険もある。テレビ局が偏向を批判されることもない。
 私がオランダに滞在していたのは20年くらい前だが、基本線は変化していないと思われる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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