環境としての人間「スクールカースト」~春学期に行ったこと~

ゼミテーマ【環境としての人間】として私は「スクールカーストの現状と緩和へ」を個人テーマに設定し、研究を進めることにした。 何故スクールカーストに焦点を当てたかというと、自分自身が高校一年生時、クラス内での権力序列に気付いたというのがそもそもの始まりである。私自身、新学期早々は権力の高いグループに所属していた。俗にいう「イケてるグループ」である。しかし、ある友人とのケンカをきっかけにして階級でいうと「普通のグループ」になってしまったのである。その際に、何か言いたくても言い出せない抑圧された空気感が生徒間の中に確かに存在していた。私はそんな空気感の中で何がこのような状況にさせてしまっているのか、あるいは人間関係にこういうもの(抑圧された空気感)がつきものだろうかといった素朴の疑問を抱いた。当時は、特にイジメという認識もなく、騒いで問題視することはなかったが、大学に入り、教育社会学を学ぶにつれて当時の状況は何が原因だったのか、原因があるとすれば、どのように対応することができるのか、再度気になり、この「スクールカースト」を研究対象にした。 そもそも「スクールカースト」という言葉はインドの伝統的な身分制度になぞらえて「カースト」。さらに学校特有のものであるから「スクールカースト」ということになる。そしてそれは、生徒間での「人気や『モテ』を軸とした序列」を意味するものである。     この「スクールカースト」を研究するにあたり、研究文献としてこの春学期は鈴木翔さん著:本田由紀さん解説の「教室内カースト」という文献を読むことからスタートした。 また、朝井リョウさん著の「桐島、部活やめるってよ」という文庫本は最近の学校内での人間関係が鮮明に描かれているものであり、同じく研究文献として取り上げた。そして実際に映画化された「桐島、部活やめるってよ」を見て、「スクールカースト」の現状を調べた。   ○映画から窺えたもの   部活動によって階級制度が存在する。この映画では運動部が文化部よりも権力を持っていた。特にバレー部は全国大会進出が期待されるほどの実績ある部活であり、校内皆から一目置かれていた。それに比べ、映画部は文化部の中でも下級に属し、校内皆から冷めた視線を浴びる部活であった。しかし、映画部は独自の価値観を貫いた結果かどうかは定かではないが制作した映画がコンクールの一次審査を突破したことが映画部部員にとって自信に繋がったのは確かであろう。そうした自信が同じ文化部である吹奏楽部に場所取り交渉をするまでに繋がったのだと推測できる。   運動神経・カップルは権力関係を強化する一要因である。何をするにしても「できる人間は上へ」「できない人間は下へ」となってしまうのは映画からも窺えることである。 映画内で登場する“宏樹”はその典型的な人物であろう。野球を過去にしていながらサッカーもバスケもこなせる人間はクラスからの尊敬の眼差しを浴びる。それに加え、宏樹には彼女がいる。異性と付き合うことはすなわち「できる人間」として扱われ、権力関係をさらに強化する元凶になっていると考えられる。   「スクールカースト上部ほど自分の考えに芯がない?!」「スクールカースト下部ほど自分の信念がある?!」これは私がこの映画を見て、最も感じたことである。映画からわかるように、桐島が部活をやめることを知った周りの人物は四六時中桐島が学校にすら来ないことに振り回される。特に桐島の彼女は自分宛てに連絡が来ないことを不満に感じ、周りの人間にその不満をぶつけ周囲の人間関係を悪化させる原因を作ってしまっている。また、宏樹は野球部主将や映画部の前田(神木隆之介)と会話する中で彼らは信念をもって生きていることを理解し、自分はただなんとなく生きていることに強く心を打たれ涙を流すシーンが最後にあった。これらのことからカースト上部にいる人間ほど上部にいる人間関係の中でなんとなく満足感を得ていて、生きるということに芯をもっていないのではないかと感じた。   映画では上記したことが窺えた。よってスクールカーストで上に所属するかしないかでは学校生活の景色が違う一方で両者の考え方も異なっていることがわかる。   さらに文献を読み進め、「スクールカースト」では大きくなにが問題なのだろうか。 ○一つにイジメの元凶になっているということである。 イジメの定義が2006年に「一定の人間関係のあるものから心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの、なお、起こった場所は問わない」と再定義されたことを受け、「スクールカースト」そのものが精神的苦痛を感じさせるものであるとすれば、いじめになるのではないかという見解も存在する。いじめになるのかどうかはさておき、スクールカーストが一つにいじめの土台になってしまっていることやいじめとの境界線が非常にあいまいになってしまっていることは、学校教育を考える上では決して好ましいことではない。 ○二つにスクールカーストにより、個人の将来性が左右されてしまうのではないかという懸念である。 文献からはスクールカーストの上部ほど、自己主張ができ、学校生活を円滑に過ごすことができる傾向にあるとされていた。しかし一方で、下部は自己主張する機会がスクールカーストの抑圧された空気感によって圧倒的に少なくなってしまう。よって、自分の意見は通らず、自分自身に自信を持てなくなってしまう傾向にあるとされる。 これらの問題点を考えると、学校教育に従事しようとするものとしては決して好ましい状況ではないと思うのだ。私はこの自身の経験に加え、こういった現状があることを踏まえると、どうにかこの「スクールカースト」の構造をなくすことはできないかと考えた。 そこで、「スクールカーストをなくすことはできないか」のヒントを得るためにインタビューを行った。   ○インタビュー対象 自らを振り返ることができることを想定して大学生 ○インタビュー方法 スクールカーストがあったのかという事実確認からはいり、どんな状態であったかの深く聞く。その際には特に質問をあらかじめ設定して聞くことはしない。 そして、スクールカーストがあれば、どうしたらなくせると思うか、あるいはスクールカーストのような序列関係がなかったとするならば、それがどのような状況だったかを語ってもらう。   ○春学期のインタビューから窺えたこと   ・まさにスクールカーストの状況が中学ではあって他人の顔色を窺いながら生活していたかな。なんでそうしていたかというと、本音で思ったことを全部言っちゃうと周りから「なにいきがってんだよ」って言われそうで、グループから省かれそうでさ。スクールカーストは自然とできちゃうものだから、なくすのはちょっと難しいと思う。 (大学三年生女) ・おれの中学はそんな状況なかった気がするけどな。それは俺がクラスの人気者でグループでは上にいたからなー。あんまわからなかったのはそれせいかも。でも高校に行ったら、自分よりも人気者がいて、そいつのいうことにはなぜか説得力があってみんな自然とついていくような感じだった。ただ、そいつがちょっと偉ぶっているというか、自分でも(権力あることを)気づいているみたいで、取り仕切っている感は何となく嫌だったかな。(大学三年生)   といったようなインタビューであった。 春学期行ったことは以上である。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。