河瀨直美氏の東大入学式祝辞を読む

 東大の入学式における河瀨直美氏の祝辞が、大分話題になっている。新聞報道されたのは、ロシアのウクライナ侵攻に関する部分で、「ロシアを悪者にするのは簡単だが、もっと複眼的にみよ」というような話をしたと紹介してあった。そして、その部分に関して、ネットではかなりの批判が巻き起こり、「ロシアを悪者にするのは、国際的にみて簡単ではない」とか、「ロシアを悪者と認定できないようなことでは、正しい判断をしていない」とか、かなり厳しい批判がある。そこで、祝辞の全文を読んでみた。率直にいえば、疑問のほうが強かった。
 それほど長いものではないが、新聞報道での紹介と、全体の印象はかなり異なる。というのは、ウクライナ侵攻について述べた部分は、極めて短いからだ。ほとんどは、自分の生まれと育ち、そして、映画人としての歩みが語られている。そして、私には唐突にみえたが、ウクライナ侵攻に関する部分が出てくる。報道では一部なので、せめて、その部分を引用しておこう。

---
金峯山寺には役行者様が鬼を諭して弟子にし、その後も大峰の深い山を共に修行をして歩いた歴史が残っています。節分には「福はウチ、鬼もウチ」という掛け声で、鬼を外へ追いやらないのです。この考え方を千年以上続けている吉野の山深い里の人々の精神性に改めて敬意を抱いています。
  管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。
---
 私は、ほとんど映画を見ないので、河瀨氏のことは、NHKでの騒動までまったく知らなかった。NHKが、河瀨氏が担当している東京オリンピックの映画に関するプロセスを描いた報道番組で、オリンピック反対デモには日当が出ている、というテロップを流したことがが問題となったときに、初めて知った。だから、彼女の全体像などはまったく知らないが、この関連で、河瀨氏のオリンピック観が、オリンピック反対派によって、けっこう厳しく批判されていることも知った。私は、オリンピック反対派なので、注意深く読んでみたが、やはり、河瀨氏の発言には、大きな疑問を感じていた。
 「オリンピックを招致したのは、私たちみんなです」「だから、オリンピックでの責任は、私たちみんなにあります」というような発言をしていたと書かれていた。つまり、東京オリンピックの最中に、コロナの感染が拡大し、自宅死も相当でたことが問題になっていたときの彼女の発言ということだ。コロナ感染は、さておき、「オリンピックを招致したのは、私たちみんなです」という発言は、おそらくそのように語ったのだろうし、私は極めて大きな疑義を感じる。私は、最初から東京オリンピック招致には反対であったし、いまでも招致すべきでなかった、コロナ感染を考慮して中止すべきであったと考えている。国際的なスポーツイベントで中止になったものが少なくなかったのだから、中止が無責任であると、国際的に非難されたとも思えない。
 
 河瀨氏への疑義は3点ある。
 まず、「オリンピックを招致したのは、私たちみんなです」という「発想様式」と、ロシアを悪者にすることではなく、ウクライナの正義とロシアの正義がぶつかりあっているのだ、と言い方は、全く異なる構造をもっている。「ロシアとウクライナがそれぞれの正義をもっている」というのは、ひとつの立場に囚われるのではなく、相対化してみよということだ。そして、その上で、平等な立場でものをみようというのであれば、オリンピックについても、賛成派と反対派を相対化し、それぞれの正しさをもっているという平等な立場でものを見る必要があるし、そもそもその前段階で、賛成と反対の立場があったことを認めなければならない。しかし、オリンピックの場合には、「私たちみんなが招致した」などという、一方の立場がすべてであったかのような虚言を弄している。
 第2に、ロシアとウクライナの双方の正義をいうが、ロシアには、ウクライナ侵攻に対するいかなる正義もない。ウクライナには、政治的にまずい点があったし、プーチンをいらだたせることをしたことは事実だが、それは、ロシアがウクライナに侵攻する「正義」を与えるものではいささかもない。ロシアが戦争をしていることと、ウクライナが戦争をしていることは、外見は同じだが、もつ意味は全く異なる。ロシアが侵略し、ウクライナは応戦しているだけである。正当な防衛である。以前、ベトナム戦争のときに、爆撃されている北ベトナムの女性が、「アメリカはベトナムの子どもをたくさん殺しているが、ベトナムはアメリカ人の子どもを一人も殺していない」といって、ベトナム戦争の意味を国際的に明らかにしたが、まさしく、このことが、ロシアとウクライナの戦争にも当てはまる。ロシアはウクライナ人の子どもを大量に殺害しているが、ウクライナはロシア人の子どもを一人も殺していないのである。これが、ロシアには正義が全くないことを示している。ウクライナの政府の対応が不味かったことを批判できるのは、ウクライナ国民だけである。
 オリンピックについていえば、賛成派にも、招致の理由があるだろうが、反対派にも、たくさんの合理的な反対理由がある。だから、河瀨氏は、オリンピックこそ「相対化」した視点をもつ必要があるにもかかわらず、そこは、「みんなが」まるで同じであるかのようにいうのである。
 第3に、ロシアを悪者にすることは簡単だというが、ロシアに反対することが難しい立場の国も少なからずあるのだ。ロシアのエネルギーや食料に頼っている国、ロシアに安全頼っている国などは、いかにウクライナ侵攻が不正義であると認識していても、ロシアを悪と決めつけることは、難しい。だから、国連の安全保障理事会でも、総会でも、ロシアを支持する国は、少数ながらあるし、また、ロシアを非難することに「棄権」した国は少なからずあるのである。明確に支持した国の国民ですら、客観的な情報が伝わっていたら、ほとんどの人は個人として、ロシアの正義を主張する立場はとらないに違いない。にもかかわらず、国連という場所で、ロシアの正義を認める、また、そこまでいかなくても、不正義と認定することをさける国家がある。
 こうしたいくつもの理由で、河瀨氏の祝辞には、容認できないところがある。
 
 率直にいって、この河瀨氏の祝辞のいいたいことが、私には全体として理解しがたかった。前後の脈絡が、あまりつながっておらず、館長様の話が、なぜ、ロシアを悪者にすることが簡単だが、ということにつながるのか、いささか牽強付会と感じがするのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です