旧中山道旅行記5

 今日は、まず滞在先のすぐ近くにある日吉大社にでかけた。滋賀県大津市坂本にある日吉大社は、全国の日吉、日枝、山王神社の総本庁であり、かなり大きな神社で、山の反対側には比叡山延暦寺がある。数年前に、延暦寺を訪れ、坂本のほうに降りてきたのだが、今度は坂本に宿をとった。
 非常に大きな神社で、たくさんの建物があった。

 日吉神社は、猿を神としており、実際に日本猿の雄雌一組を小さな檻にいれて飼っていた。「時々乱暴になって水を浴びせるから注意」という看板がたっていた。あまり神のような雰囲気をもった猿ではなかったようだ。こんな小さな檻に閉じこめられているのだから、ストレスもたまるに違いない。残念ながら、暗い檻だったので、写真は撮れなかった。
 今日が特別な日なのかはわからないが、ソプラノ歌手とおぼしき人たちが、順番に、キーボードの伴奏で歌を歌っていた。宗教的な歌らしいのだが、内容はよくわからない。30人程度が椅子に座って、その後ろに10名程度の聴衆が聴いていたから、定期的に行なわれているのだろう。

 このような大きな神社は、古いからだろうか、巨木が多数植えられており、写真のように、非常に高く育っているのだが、まっすぐなのが多かった。これだけ高く伸びると、太陽の関係で、多少曲がっていくと思うのだが。

 東と西に大宮という一群の建築物があり、そこに登っていく。

 今日の主要な目的は、近江八幡だったので、比較的早く切り上げ、宿に戻って、車で向かった。昨日も来るときに、近江八幡の側を通ってきたのだが、今日のルートは、途中までまったく違う通りが、ナビによって指定された。昨日は、夜、細い道を何度も曲がりながら、迷路を通るような感覚だったのだが、今日は、琵琶湖大橋にいくまで、実に簡単な道を通っていった。ならば、なぜナビは昨日この簡単な道を指定しなかったのだろう。ナビというのは、ちょっと理解しがたい選択をすることがあると感じる。

 近江八幡に到着したが、ここにはたくさんの神社や史跡があり、一大観光地となっている。最初の入口として、日牟禮八幡宮があるが、これはパスして、ロープウェイで登る八幡山城跡にいく。八幡山城は、秀吉の養子の秀次の居城であったが、秀次が切腹を命じられ、八幡山城は、廃城となった。元々、八幡山城は、安土城を城下町ごと移転させたようなものだったので、廃城となっても、様々な施設は残り、今に至っている部分がある。
 まずは、山城なので、あるところまでロープウェイで登り、そのあと、いくつかの建物めぐりをした。

そして、ここにも、写真のような舞台があり、雅楽のようなものが奏されるのかも知れない。


 そして、枯山水の庭があった。一緒にみていた妻はあまり感心しない様子だったが、手入れはよくしてあると感じた。ただし、写真のように、大きな起伏のあるつくりではなく、平坦な庭だった。


 大きな秀次像があり、写真も撮ったのだが、暗くて写りが悪いので、掲載できなかったのが残念だ。
 それにしても、秀次というのは、ある意味気の毒な人だ。たいした功績がないのに位人臣を究めたようなあとで、秀吉に跡継ぎが生まれたために邪険にされて、一族郎党処刑されてしまう。頼朝もそうだが、権力者というのは、後継問題には、やはり、特殊な思いにとらわれてしまうものなのだろう。

 このあと有名な八幡堀を少しだけみた。鬼平犯科帳で撮影されたことがあったそうだが、確かにそういうイメージがわいてくる。江戸時代は、水運の時代なのだが、東京では、完全に水運は滅びてしまったので、撮影をこういうところでせざるをえないわけだ。もう少し、八幡堀を周遊してみたかった。

 そのあと、安土城にいった。数年前に、修復工事が始まったころいったのだが、そのころからどう変わったかを確認したかった。しかし、時間が遅かったので、なかに入ることができず、詳細はわからないが、外でもわかる範囲では、あまり進んでいないという感じがした。一番下に、秀吉の住居があったそうだが、そこは、芝生がよく手入れされているだけだった。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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