今日は、いよいよ本来の目的である、旧中仙道にある史跡巡りを実施することができた。というより、今回の旅行の目的は、岐阜県にある馬籠宿と、長野県の妻籠宿を見ることにあった。島崎藤村の「夜明け前」の舞台となっている宿場であり、当時の面影がどの程度かはわからないが、できるだけ保存しようと努力しているふたつの旧宿場街である。しかし、実際にいってみて、となりの宿場であり、互いに復元という点において影響しあっている両宿場でも、ずいぶん雰囲気の違いを感じた。そして、それが、人出の違いにも現れていたように思う。
とった宿の関係で、まず妻籠宿にいった。最初間違って車で乗り入れてしまい、まずは車で妻籠宿を通りすぎてしまった。完全に通行禁止になっているわけではないようだが、車の乗り入れはほとんどない。私たちが歩いている間に、他の車は通らなかった。しかし、通りにある家は、もちろん車をもっているわけで、この通りを避けることはできない。再度駐車場を探して、そこから、いよいよ歩いて妻籠宿の通りを端から端まで歩いてみた。
写真では、あまり人が写らないようにしたので、さびれている感じがするかも知れないが、観光客はそれなりに多かった。一度店におやきを食べに入ったのだが、私たちが食べている間にも、何人か買いにきていた。しかし、それでも、コロナのために、本当に人が減ってしまったと、おやき屋さんのご主人は、嘆いていた。
このような宿としての体裁をとっている家が並んでおり、江戸時代当時の名称もでている。しかし、現地の人の話では、やはり、コロナの影響は大きく、店などをやっていた家が、たたんでしまったところも少なくないそうだ。
木曽はとにかく坂が多いので、妻籠宿は比較的平坦だったが、水路の水が勢いよく流れており、水車があった。現在はもちろん何かの仕事をしているわけではなく、観光用に残しているのだろうが、これだけ坂が多く、水路も残っているのだから、ところどころで小規模発電をしたらどうかなどと思ってしまった。
次の写真は、めずらしいので撮ったものだが、巨大な石だった。なぜこのような状況で保存されているのか不明だが、地震があったときにはかなり危険な気がした。
次の札は、高札と呼ばれるもので、土地の支配者が、領民に知らせる内容を書いたものである。これは、宿場の最初に、掲げられていたもので、次の馬籠宿にも同じものがある。
宿場には、原則として、本陣と脇本陣がある。本陣は大名や貴族が宿泊するもので、脇本陣は、本陣が他の大名が使用しているために、使えないときに、予備としての宿泊施設である。したがって、本陣と同等の設備をもっている。
妻籠宿では、本陣はそれなりに残されているが、むしろ、脇本陣がきちんと整備されており、当時の様子がわかるようになっていた。脇本陣の跡には、丁寧な説明をする女性がいて、明治天皇が来たときのことを、詳しく説明してくれた。明治天皇は、ほとんど知られていなかった「天皇」を国民に知らしめるために、行脚をしたわけだが、この脇本陣にほんの30分ほど滞在したという。そのために、わざわざテーブルをつくり、厠も特別に建築したという。しかし、テーブルというものを当地の人たちはまったく知らず、イメージでつくったために、足を結ぶ棒のようなものを横に渡してしまい、椅子に座ったときに、座りにくいものになってしまったという。そのテーブルまがいのものが展示されていたが、残念ながら、椅子はなかった。そして、厠もつくったのに、結局利用されないままだったということだ。
天皇という存在が、いかに、国民に大きな負担をかけていたかがわかるエピソードといえるだろう。
本陣も見学可能だったが、写真をとることはできなかったので、割愛する。興味深い話は、大名は料理人を常につれていて、本陣の料理を大名が食べることはなく、料理人がつくった食べ物を必ず食べたのだそうだ。そのための特別な料理部屋が用意されていたそうだ。
妻籠はかなりながい間見学したが、そのあと、となりの宿場である馬籠宿にむかった。馬籠峠を超えるので、とにかく、急坂を登り、また、降りるという激しい道をへて、となりの岐阜県になっている馬籠宿にいった。しかし、雰囲気は全く違っていた。妻籠のような真剣みがあまり感じられないのだ。妻籠の脇本陣の女性の説明員によると、とにかく、すべての産業がうまくいかなくなり、それで観光事業に活路を見いだした、それでできるだけ江戸時代の様式を保存することを、町内会のようなところで確認し、それを守ってきたという。馬籠宿もその点は同じなのだろうが、あまり、切実館切迫感が感じられないのだ。
それから、馬籠宿は、全体がかなり急な坂になっており、ゆっくり見ることが、難しい感じがしたことも、そうしたネガティブな感情を生んだかも知れない。