菅首相が、党首討論で1964年のオリンピックを懐かしがった話をして、64年オリンピックが、また話題になっているようだ。そして、64年オリンピックが成功したから、その再現を夢みたいという人々がいるようだ。しかし、64年のオリンピックというのは、それほど、素晴らしいものだったのだろうか。もちろん、それをきっかけに、日本が高度成長を実現し、先進国の仲間入りが可能ではないかという自信をもたらしたことは事実だ。しかし、そんなに単純にいいきることはできないのだ。
まず、ふたつの違いを確認しておこう。
何よりも、大きなことは、開催の時期である。64年は10月10日が開会式であった。何故10月だったのか。それは、夏は暑すぎるので、秋にする、そして、過去の統計を調べて、最も快晴が続く時期を選んだのだ。そして、統計の通り、開会式は晴天のなかで行われた。大会中雨が降らなかったと思う。それに対して、今回は、真夏の酷暑のなかだ。真夏は暑いといっても、1960年代より、いまは平均気温が非常に高くなっているし、コンクリート化と冷房の普及で、更に実感の暑さが高くなっている。もし、予定通り、小学生がふたつの駅を歩いて会場に行き、数時間を競技場で過ごし、そして、また二駅を歩くとしたら、死者がでる危険すらある。実際に、数年前1キロの校外学習で歩いて、亡くなった小学生がいるのだ。観客をいれれば、観客のなかから、また、選手からも熱中症患者が多数でるだろう。
何故、7,8月の暑い時期に実施されるかという理由は、広く理解されている。ただ単に、アメリカのスポンサー事情によるのだ。1964年当時、国際衛星放送は存在しなかった。だから、テレビをみるといっても、おそらく国内では実況中継をみることができたが、外国では、ニュースで映像をみたので、アメリカの我が儘など出てくる余地がなかったのである。だから、最も条件のよい時期を開催国が選ぶことができた。
第二の違いは、商業主義とプロ化である。本来、オリンピックはアマチュア・スポーツの祭典だった。しかも、日本では、金メダルをとっても賞金などでなかったから、実に質素な感じの競技風景だったのである。いってみれば、学校で行われる運動会が、大規模に国際化されただけのものという感じだった。もちろん、聖火リレーもスポンサーが仰々しく車列をつくって宣伝するなどということはなく、実際にランナーはそれなりの長距離をスピードをだして走ったのである。今回のように、タレントが、たった200メートルをたらたら小走りに移動するというようなものではなかった。確かに、聖火をもって、ひたすら目的地に向かって走るものだった。
プロの競技が行われている分野では、出場者はほとんどがプロ選手になった。したがって、競技の質が高くなったことは間違いない。そのことで、スポンサーがたくさん付き、規模が大きくなってきた。競技場のサイズなども大きくなり、そこに建設業界の利権が絡むような構造もできた。まだアマチュア中心だった64年にできた競技場は、その後も利用されてきたが、商業主義のオリンピックになると、作られた施設が野ざらしになるような事例もたくさんでてきている。今回の東京オリンピックではどうなるのか、まだわからないが、札幌マラソンの一部施設は、元に戻されることになっている。
そして、最大の違いは、64年のオリンピックは、確かに多くの日本人によって歓迎された部分が大きいが、(すべてでないことは、あとで説明する)今回は、いまでも中止・延期が多数である。ここまで開催強行が確実になると、反対しても無意味という無力感が出てきているが、それでも、否定派は多数なのである。これほど歓迎されないオリンピックは、かつてあったのだろうか。
もちろん、コロナの影響だが、それ以前に、あまりに利権絡みの汚さが周知されるようになったことも大きい。
オリンピックは、文化的な催しも盛んに行われていた。64年オリンピックでも、特別な音楽会などが多数開催されていたものだ。
しかし、今回は、そうした催しは、コロナの関係で中止になったようにも思われない。ウェブで検索すると、いくつの催しがあるが、かなり少ない。コロナだけではなく、あまりに暑い時期だということもあるかも知れない。
さて、ここから、64年の東京オリンピックが、決してプラスの面だけだったとはいえないことを書いておきたい。
1960年代は、学校教育で教えるように、高度成長の時代だった。当時、東京の世田谷に住んでいた私は、この高度成長による変化を肌で感じた世代である。
高度成長は、もちろん、全体として日本経済の規模が大きくなり、国民は豊かになった。各種電気製品が普及し、生活は便利になった。しかし、単純にそういう面だけではなかったのでる。
評価は分かれるとは思うが、東京の風景がすっかり変わってしまったことがある。代表的には、首都高速道路の建設である。現在の首都高は更に拡大しているが、首都高は、主に河川の上に建設されたのである。よく知られているように、江戸時代は水運が主要な交通手段であって、とくに生活物資は水路で運ばれた。徳川家康か江戸にはいったとき、多くが湿地帯で、河川もたくさんあった。その河川の水路を整備し、湿地帯を埋め立て、江戸中に水路、水道、船着場などが整備されたのである。そして、そうした水運は、昭和30年代まで残っていた。ヨーロッパなどでは、いまでも内陸の河川は、大きな貨物の運搬に活用されているが、日本では、完全に昭和30年代に消失させられた。それは、首都高の建設と不可分の関係があると考えざるをえない。
そして、1961年に都市計画法が改正され、超高層ビルの建設がめざされるようになった。日本一の高層ビルであった霞が関ビルは、65年に着工され、68年に竣工したのだが、1960年代をかけた事業であり、そうしたビルの出現が、東京の中心地帯の風景を大きく変えていったことは、容易に想像がつくだろう。
東京にまだあったゆったりとして空間、川があり、舟が行き交う光景は、首都高と大規模ビルの建設によって、完全に消失したのである。経済の発展にとって、当然のことだと思うひとも少なくないだろうが、高速道路が首都の真ん中を縦横に走るような先進国の首都は、存在しないのである。先進国は、もっと首都の景観やゆとりに配慮をするものではないだろうか。
オリンピック施設が作られた山手線の外延地域は、当時はまだ草原の残る地域だった。それが整備され、いくつもの近代的なスポーツ施設が作られ、現在でも活用されている。このことは、積極的な意味があるだろう。しかし、他面で子どもたちの遊び場が失われることでもあったのだ。
私は、オリンピック競技施設が作られた駒沢の近くに住んでいた。当時駒沢は、野球人の天国のようなところだった。プロ野球東映フライヤーズの本拠地駒沢球場があり、たくさんの有料野球場があった。そして、子どもたちのために無料で開放されていた少年球場もあった。私は、そこでいつも野球をしていたものだ。しかし、こうした施設は、すべて廃止され、オリンピック公園に変わったのである。いいものができたからといって、失われたものを無視していいものではないだろう。
そして、高度成長に関して、無視することができないのが公害の拡大である。これは詳しく書く必要はないだろうから、ひとつだけ実体験を記しておきたい。
私は、1968年に大学に入学したので、高度成長が実感されていた時期であるとともに、その弊害が認識されていた時期でもあった。最も酷い公害は、熊本、新潟、三重、神奈川など、東京以外のところで生じていたが、東京が無縁だったわけではない。私が入学したとき、同級生の一人が、お前の住んでいるところは、深呼吸ができるかと、私に聞いた。当時世田谷は、純粋な住宅地域であったし、空気もそれほど汚染されていなかったのだが、彼のところは、本当に空気が汚れていて、深呼吸などできないのだそうだった。確かに、都心にでると、空気が匂いを発していて、汚れが実感できた。また、隅田川などの河川の汚れも酷く、総武線で上を通ると、嫌な臭いが電車のなかに漂ってきたものだ。
こうした環境の悪化は、現在は温暖化による気候変動として現れ、先日も熱海の恐ろしい土石流による被害が生じたが、毎年のように、大雨の被害が起きている。
このように、オリンピックのような大規模なイベントの実施は、社会そのものを大きく変える力をもっているといえる。64年のオリンピックは、日本が離陸するきっかけとなったことは間違いないが、逆に、失ったものも大きかった。東京一極集中が加速し、巨大な都市になったが、もっと地方都市が充実し、機能分担をしたほうがよかったのではないかともいえるのである。
それに対して、今回のオリンピックは、当初から歓迎されざる側面をずっともっていた。石原都知事の招致運動が失敗したのは、世論の賛成が少なかったからである。都民や国民は、オリンピックなど望んでいなかったのである。それを利権に絡む企業や組織が、メディアを動員して世論を誘導し、原発はコントロールされているなどという嘘を述べ、賄賂で獲得した票でからくも招致が実現したのだが、エンブレム問題は国立競技場、地方開催問題等、最初から実に不可解なトラブルが生じた。コロナは、そうした問題だらけの状況を「拡大」したに過ぎない。国民の本当の支持の下、責任をもった政策を押し進める力量のある政府が指導していれば、コロナ対策もうまくいき、多くのひとが可能になると考えた2年延長で、無事終えることができたに違いない。
現在政府は開催強行を突っ走っているが、途中で様々なトラブルに見舞われるに違いない。そうして、日本の低下が世界中に喧伝されてしまうのは、残念なことだ。